Fallen


    土砂降りの雨に濡れたセルバントがの家を訪れたのは
    ロシナンテが死んで3年がたってのことだった。

    軍医」
    「どうしたの、こんな時間に」
    「教えておきたいことがある。今、良いか」
    「・・・ええ、特にお構い出来ないけれど」

    タオルを出し、茶を入れてやってもセルバントはろくに手を付ける様子も無い。
    普段ポーカーフェイス代わりに浮かべている笑みも無い。
    訝し気な表情を浮かべるに、セルバントは指を組んで告げた。

    「冷静に聞け、軍医。
     ドンキホーテ・ドフラミンゴが七武海になる」
    「・・・なんですって」

    は驚きを隠せず、セルバントに詰め寄った。

    「どういうことなの!?」
    「・・・あの野郎、天上金に手を付けたんだ」

    各国の天竜人への貢ぎ金「天上金」の輸送船を襲ったのだとセルバントは口にする。

    「当然の如く、海軍は奴らを攻撃、奪還作戦を決行した。
     天竜人の金ともあって近国の軍隊にも応援要請をだしたが、ドンキホーテ海賊団は崩せなかった。
     そうでなくとも奴は懸賞金3億4000万ベリーの海賊。並の奴らじゃ歯が立たねェ」

    「つる中将は・・・!ドンキホーテは彼女の管轄のはず!つる中将なら!」
    「無理なんだよ!これが起きたのは3日前!お前も知っているはずだ!天竜人がどんな奴らか!」

    セルバントは冷静ではなかった。
    憤っている。その声にはやるせなさと、後悔が滲んでいた。

    「ドフラミンゴは全部計算ずくで動いてたんだ・・・!
     輸送船からすぐに世界政府、そしてマリージョアへ!
     要求を突きつけた。『おれを七武海に加えろ』と。
     『さもなくば、積み荷と天上金は全て海に捨てる』と言って」

    「・・・天竜人が、」

    は愕然としていた。
    前髪を苛立たし気に掴んで、呆然と言葉を口にする。

    「政府に圧力をかけたのね。一刻も早く、貢ぎ金が治められないと困ると。
     そのためにドフラミンゴを七武海に迎え入れろと・・・、そういう、ことでしょう」

    の推論に、セルバントは頷いた。

    「そうだ。あの野郎・・・ここ最近やたらと暴れて懸賞金の値を上げたのも、
     七武海に申し分ない実力を知らしめるためだろう。
     正式発表は明日。おそらくお前にはつる中将から直々に通達される。
     七武海候補に因縁のある人間はそうやって伝達されるしきたりだ」

    セルバントはぎり、と奥歯を噛み締める。

    「当然、あいつが七武海になりゃ、懸賞金は取り下げられ、拿捕することは誰にも出来なくなる。
     なんせ”身内”になるんだからな」
    「納得出来ないわ。何が身内?何が正義よ、こんなことが、許されていいの?」
    軍医」

    「あの男が七武海になって、その地位を利用して何をするのか、分かったものじゃない。
     それでも、これだけは言えるわ。あの男は必ず”平穏をぶち壊す何か”をするのよ。
     それを、・・・指をくわえて見ていろと言うの?・・・冗談じゃないわ!」

    わななく唇で空を睨むに、セルバントは眉を顰めた。

    「・・・おれたちの負けだ。軍医」
    「・・・」
    「おれたちが海軍に属する人間である以上、おれたちには超えられない壁がある。
     あの男を前に、後手に回った時点でおれたちは既に負けていたんだ」
    「・・・いいえ。まだよ」

    は呟く。

    「まだ出来ることがあるはずだわ」

    だが、その時にできることは、本当に無かったのだ。

    数ヶ月後、ドンキホーテ・ドフラミンゴは一夜にしてドレスローザの国王になった。
    乱心したリク王から玉座を奪い取ったドフラミンゴの国民の支持率は高く、
    一海軍医であるの立ち入る隙などなかった。

    ドレスローザという国の成り立ちを知り、はあまりの悔しさに涙を零した。
    ロシナンテが守ろうとした国、それはドレスローザだったのだろう。
    天竜人、その祖先、かつてドンキホーテ一族の治めた国。

    ドフラミンゴが目を付けて当然と言って良かった。
    見逃した己に、腹が立って仕方が無かった。

    つるから、ドフラミンゴが七武海になると聞いても、は淡々と返事を返せた。
    それは政府へ完全に失望したことを意味していたが、誰にもは内心を悟らせまいと決めていた。

    失意の中、時間だけが過ぎて行く。

    ドフラミンゴを失脚させるべく軍内部で情報を探るも、
    海軍に居る以上必要以上の”身内”への詮索は越権行為と見なされる場合もある。
    内通者が居ると言う漠然とした懸念も、を慎重にさせる一因だった。

    だが、は諦められずにいた。
    軍に居ながらにして出来ることは全て行っていたが、ドフラミンゴの尻尾は掴めない。

     でも、軍を離れたら?

    の脳裏にその考えがよぎるようになってから随分と時間が経っていた。
    それでもが軍を離れなかったのはセルバントやつる中将、元帥となったセンゴク。
    彼らを裏切ることに、僅かな躊躇いを覚えていたからだ。

    だから表面上は冷静さを取り繕いながら
    海賊の拿捕、医療行為を行っていた。

    セルバントはもしかするとの身の内に吹き荒れる嵐には気づいていたのかもしれない。
    だが、それでもが理性的に振る舞うから見逃している部分もあったのだろう。

    ギリギリのところで留まっていたに、
    転機が訪れたのはロシナンテが亡くなって10年が経った日のこと。
    よく晴れた、夏の日のことだった。



    中将の一人から声がかかった。

    軍医、君には科学班の護衛艦で軍医として職務に当たってもらいたい。
     つる中将からは許可を得たのでね」
    「・・・科学班の?ドクター・ベガパンクですか」
    「いや、ハチソン博士だ」

    の脳裏にあまり評判の良くない科学者の顔が浮かぶ。
    しかし、は是を返した。
    ごく普通に、護衛艦で軍医として働けば良いと思っていた。

    科学班の船の護衛艦につくや否や、は今回の任務には不自然な点が多過ぎると感じていた。
    海兵達にも科学班の行く先は伝えられていない。責任者の大佐は知っていたようだがあまり多くを語らない。

    科学班の人間は海兵達を体のいいボディーガードか労働力程度に思っているのか、
    実験器具の運搬も手伝わされた。
    も例外ではなく、いくつもダンボールを運ぶ中で、妙な胸騒ぎを覚えていた。

    科学班に居る人物、彼らに見覚えがあったのだ。
    そして運ばれる実験器具、かつてがカルミアと過ごした場所にあったものと似通っている。
    だが、まさかそんな偶然があるだろうか。

    は首を振り、荷解きをする。
    その箱にはレポートや資料が幾つも入っていて、通りで重いと思った、と息を吐きながら、
    テーブルにレポート、書籍を並べる。脳科学、医学書の類いが随分と多い。
    その中にまぎれていた、レポートの筆者の名前を見ては思わず息を飲む。

    ・ローレン・・・」

    の父親の名前がそこにあった。

    気がつけば、はそのレポートを捲っていた。
    簡易製本されたレポートは、神経質そうな字でまとめられている。
    薬や実験の内容は、今のになら理解出来た。

    ごく普通の人間に魔眼を移植できないか、
    あるいは魔眼を開眼させられないかも試している。
    挙げ句の果てには、の他にも夢魔の子供を作ろうと、
    人工授精を試みたという記述まであった。

    は眉を顰め、レポートを読み進める。

    魔眼やその効能について、とても良くまとめられてはいた。
    だが、実験自体は上手くは行かなかったらしい。
    カルミアの他にも、何人かの夢魔を実験していたが、
    皆カルミアより先に、無理な実験内容に耐えきれず死んでいた。

    は首を捻る。
    なぜかカルミアは他の夢魔に比べ、格段に長命だった。
    カルミアは特別人より強靭な人物だったのだろうか?

    は内心でその考えを否定する。

    「カルミアは科学者に魔眼をかけて実験内容をコントロールしていた。
     そう考える方が、しっくりくる・・・でも、なぜ・・・」

    それが出来たのなら、カルミアはあの実験場から脱出する事は容易だったのではないだろうか。

    計測される値は、他の夢魔にくらべ安定している。
    ローレンもおそらくはこれに気づいていただろう。
    の心臓が高鳴っていた。
    嫌な予感がして、鼓動ばかりがうるさく感じる。

    最期の章に行き着いて、は息を飲んだ。
    それは謝罪から始まっている。その先のページは破られていた。

    『すまない、カルミア、

    「・・・どういうこと?」

    はずっと、父であるローレンは実験を主導していたと思っていた。
    封の切られていない手紙がレポートから落ちる。
    はそれを、何かに駆り立てられるように、封を切り、読み進めた。
    カルミアに当てた手紙だった。



    『カルミアへ
     
     君には謝っても、謝りきれない。
     私が君に近づいたのは、実験のためだった。それを否定することはできない。
     
     夢魔の一族の持つ”魔眼”という力。それがどれほどの力なのか、君は理解していたはずだ。
     特に、自白効果に関する政府の関心は強い。他人の記憶を操る術も。
     それが手に入ってしまえば、政府はワイルドカードを手に入れたも同じだ。
     
     政府にとって都合の悪い人間に、適当な罪をなすり付けて裁くことも出来る。不都合な真実を消すことも。
     
     だが私は魔眼に、別の可能性を感じていた。
     薬を受け付けない患者へ投薬と同じ効果を与えること、脳障害を癒すこと。
     自己治癒力の強化による、どんな病にも怪我にも打ち勝つ力。
     
     政府が魔眼を手に入れたことで生じる、悲劇の可能性を感じながら、私は目を瞑った。
     そして何より興味があったんだ。人知を超えた、その力を解き明かすことに。
     
     それで、君に出会った。
     君は、美しく、強く、自由で、好奇心の塊みたいな人だった。
     夢魔の一族の長として、一つどころに縛り付けられるのを嫌い、辺境の島から出て行きたがっていた。
     お忍びと言いながら航海をして、それでも部下に呼びつけられれば帰って来て
     ひたすらに仕事をこなす君は、とても印象的だった。
     私のあげた本を、恐るべきスピードで読破して、私に知らなかった薬の知識を教えてくれた。
     その医療知識は政府の人間をも凌いだ。
     漂着した私に突き刺さった木片。もう刺さっていた場所もわからないんだ。傷が残っていないから。

     それなのに。今でも覚えている。海がどうして青いのか、空がなぜ青いのか、君に教えてあげたとき、
     君はすぐにその原理を理解して、笑ったんだ。
     私はそのとき、何もかもどうでも良くなったことに気がついた。
     
     私は君に、取り憑かれていた。

     私は君にすべてをさらけ出していたことだろう。
     きっと私が、君の瞳の秘密を暴きたいと考える、略奪者であることも、君には全て分かっていたはずだ。
     私は君に殺されても構わないと思った。
     それなのに、君は、私に全てをくれた。
     
     あの子を身ごもったと知って、私は何としても、君とあの子だけは、逃がさなくてはと思った。
     でも、できなかった。
     君はあれほど逃げ出したがっていたのに、
     夢魔の女王としての立場を捨てず、上に立つものとしての責任を果たした。
     どうしてもと側に残った側近だけを残して、他の夢魔の一族を逃がした後、君は自分から檻の中に入った。
     私の家族のことなど、君が気にする必要などなかったのに。
     
     あの子に与えられる薬は、ほとんど君が飲んだんだろう。
     注射も、君がすぐに魔眼で相殺したおかげで、あの子は健康体だった。
     あの子が10歳の誕生日、君はあの子が本格的な薬物を使用しての洗脳を受けると知って、
     それに酷く反発したと聞いた。
     君が魔眼で暴れるので、無理に投与された薬は、私の知る限り最も強力で、最も非人道的な薬物だ。
     それなのに、君はあの子が洗脳を受ける可能性がある限り、あの子の側から離れたがらなかった。
     
     私は君を、心から尊敬している。カルミア。

     だが、君の最も愚かなところは、私のような人間に、全てを与えてしまったことなのだ。
     それでもせめて、君の愛情に応えたい。私は私の出来ることをする。
     私はこの実験を凍結させる準備を進めている。あの子を政府の道具にはさせない。
     
     人間性なき科学に、未来など無いのだと言うことを、私は証明してみせる。
     君には辛い思いをさせるのかもしれない。すまない、カルミア。
     だが、私は君と過ごせた時間が、何より幸せだった。
     君を、君たちを愛している。
     
     ・ローレン』

    は愕然としていた。
    カルミアがを守るために、何をしたのか。
    ローレンがに明かす事無く、隠し通した決意をはそのとき、初めて理解したのだ。

    白衣の男達が入って来たのを感じ、は物陰に身を潜める。

    「夢魔の実験は2度目だな。捕まえるのは海兵にやらせるにしても・・・面倒だ」
    「うまく行くわけないのに、なんで上はこんな実験をやらせたがるんです?」

    若い男が首を捻っている。それに年嵩の男の声が答えた。

    「うまく行きかけたんだよ。前の実験のとき、科学者の中に、夢魔を手懐けた男が居たんだ」

    は自身の口を覆い、声を殺す。

    「手懐ける?でも失敗したんですよね?」
    「ああ、死んだからな、その男。結局夢魔に殺された。
     発案者のくせに最初は研究に非協力的だったらしいし。無理矢理協力させた訳だが」
    「無理矢理って・・・」
    「研究に協力しなきゃそいつの妹の命は無いって脅したようだ。
     なんでも重篤な脳の病だったらしい。
     魔眼は脳に作用するから藁にもすがる思いでの発案だったんじゃないか?」

    その時、は抑えていた手の平の奥で、
    自身の唇が感情と裏腹に弧を描いたのを自覚していた。
    薄氷の上を、亀裂が走って行くのを見るような、そんな感覚を覚えていた。

    「それで、どうなったんです?その人」
    「あ?死んだ男の妹か?さぁ?知らねェな。
     結局そいつを殺して夢魔も死んだし、夢魔のガキは魔眼に目覚めずじまい、
     政府の施設かなんかに行ったっきり音沙汰無しだ。
     そのせいで夢魔の実験は凍結された。
     だが最近になって夢魔の住む島が見つかったらしい」
    「へぇ・・・」
    「ま、夢魔は見目だけはいいからな。
     実験がうまくいかないにしろ美味しい思いはできるだろう」

    の胸元で、金のネックレスが涼やかな音を立てた。
    ネックレスの先に揺れる、かつては左手の薬指に嵌っていたリングを触る。

    ロシナンテがもし、生きていて、これからがとる行動を知ったなら、
    悲しんだのだろうか、怒ったのだろうか、それとも幻滅したのだろうか。

    はリングをすりあわせるように弄ぶ。
    答えるものなど誰も居ない。下卑た笑い声ばかりがその場に響く。

    かつて、はドフラミンゴと相対した時に、ドフラミンゴを怪物だと思った。
    それは、自身と似通っていると思ったからだ。

    他人の命を啜り生きる化け物であり、
    他人を容易く自らの奴隷にすることが出来る薄汚れた才能を持っている。

    だが、は人の優しさや愛情を切り捨てる事だけはしたくないと思っていた。
    セルバントやつる、センゴク、数少ない、を気にかけてくれる優しい人々を裏切りたくなかった。

    しかし、今はどうだろう。

    世界政府はドフラミンゴを七武海にした。権力を、富を、地位と名誉をドフラミンゴに与えた。
    ロシナンテが命を懸けて守ろうとしたのだろうドレスローザは、ドフラミンゴを王と仰ぎ、
    その富を謳歌している。血塗られた金で遊蕩し、血を娯楽にし、笑っている。
    そして極めつけに今だ。
    がかつてロシナンテに慰められるまで、から両親を奪い、孤独に追いやり、苦しめた、
    夢魔の人体実験。それを世界政府は繰り返そうとしている。

    ”正義”で居ながらにして、ドフラミンゴを倒すことは叶わない。
    そして、今、自身の居る、”正義”の立ち位置は、に取って、さほどの意味を持たなかった。

    は笑う。
    そうとも、昔決めていた。
    ”どんな手を使ってでも”ドフラミンゴを倒すのだと。

    もう、誰の心を踏みにじっても、構わない。

    は立ち上がった。

    白衣の男たちはぎょっとしたようにを見つめる。

    「い、いつから居たんですか?いやだなぁ、はは」
    「女海兵さんには聞き苦しいことばかり・・・」
    「・・・そういや、あんた、どっかで見た顔のような」

    男たちの、取り繕うような言葉が、雑音のように流れて行く。
    は目を瞑り、ゆっくりと開いた。
    柔らかく、甘ったるい声が、喉を滑り出る。

    「あなた達も、いいえ、あなた達こそが、実験台になるがいいのだわ」

    その目は青白く発光していた。
    男たちは息を飲む。
    そこに居たのは悪魔だった。
    白衣と白髪を翻し、全身から憎悪を吹き上げ嗤う女は、人である事をやめていた。

    「教えてよ、私に一体、何が出来るのか。
     ・・・私が一体、どんな化け物なのかを!」

    おぞましく、美しい瞳が、軍艦に乗る人間を枯らすのに、そう時間は掛からなかった。



    護衛艦を焼き尽くし沈めた。だが、今乗る科学班の船は残すつもりだった。
    もう海軍には戻らないという意思表示のために。

    返り血に塗れたはブツブツと同じ言葉しか話さなくなった青年を除いて、
    老人のように枯れ果てた科学者どもの死体を眺めた。

    その頭蓋を足で砕き割った。指を折った。足を切り捨てた。
    痛覚だけを鋭敏にさせ、そよ風で悲鳴を上げさせた。
    ありとあらゆる苦痛を、その魔眼で味わわせてやった。

    さしたる感想は無かった。気分は良くも悪くもない。
    ただ少しの充実があった。そして拍子抜けもした。
    なんだ、こんなものか、と思ったのだ。

    殺したところで何も蘇りはしない。
    美しく聡明だった母は帰ってこない。話をしてみたいと願った父も。
    の愛した婚約者が、再びに笑いかけることなど無い。

    生かすほうが殺すよりずっと難しい。
    だが、これからどうすれば良いのか、どう生きれば良いのか分かっている。

    「これで私は、あなたと同じ”怪物”になったわ、ドフラミンゴ・・・」

    額に手を当て、俯きながらは呟いた。
    その唇は弧を描いている。の仇敵と、同じように。

    は船を進ませると、適当な場所で乗り捨てた。
    魔眼での戦闘。その使用方法は、軍艦で思いつく限り”実験”した。
    もう何も、に怖いものなんて無かった。