第六話 「復讐」


がハートの海賊団に上手く乗り込んでから、しばらく経った。
船員達の警戒心には船長譲りで苦労もしたが、同じ釜の飯を食べ、同じように戦い、
時に身を挺していれば、いずれは彼らも”慣れる”と知っていた。
与えられた猫の額程の小さな部屋、置かれた鏡に向かって口角を意識して持ち上げる。
容易く微笑みを形作る唇と、氷のように冷えた瞳。
目の下にはローと揃いの、濃い隈が浮かんでいる。
夢魔としての食事をここしばらくは摂っていないのでそれも当然だろう。

は少し逡巡したが、結局船長室に向かうことにした。
恐らくローはの断食に気づいているし、そのデメリットも知っている。
が向かわなければロー自らここへ足を運ぶだろう。それは望ましくない。

は船長室の扉をノックする。
おそらくローも察していたのだろう。
なんのためらいも無く入室を許可する声がした。

「・・・入れ」

後ろ手に扉を閉める。
部屋の主は行儀悪く机に足をかけながら、
トレードマークの帽子をデスクに置いて医学書を読んでいた。
ローは本を閉じての顔を見ると微かに目を眇め、立ち上がってつかつかと歩み寄る。

「2週間だな?」
「・・・ええ」
「そんな厚化粧で誤摩化せるとでも思ってんのか」

ローはの目の下を親指でなぞった。
指の腹にかなり厚く塗られたファンデーションの粉が付くのが分かるやいなや、
不愉快そうに鼻を鳴らしてみせる。

「デリカシーに欠ける発言ね。・・・さっさとすませたいの。目を閉じてちょうだい」

の抗議に欠片も従う様子がないローに、大きくため息を付いた。
ローはいつもの不遜な物言いでの嘆願を切り捨てる。

「おれに命令するな」
「・・・あなた本当にイかれてるわ」

琥珀色の目に映り込むの顔は苦々しさを伴いながらもその瞳だけは欲望に忠実だった。
ローの首に手を回す。の目は今や爛々と輝いていることだろう。
久々の食事だ。
は目蓋を閉じ、そしてもう一度開いて、本能に従うべくその唇に口づけた。



はハートの海賊団に客員として足を踏み入れるにあたって、
ロー、そして船員達との会話で、嘘は吐くまいと決めていた。
だが意図的に黙っていることはいくつかある。
例えば最初にローに話した「推測」あれは全て、後付けなのだ。

トラファルガー・ローが、ドフラミンゴの失脚を狙う理由を、は恐らく、極めて正確に知っている。
なぜなら、はローがドフラミンゴの船を降りるきっかけの一部始終を知っているからだ。
珀鉛病を患う、まだ子供だったローに同情し、
世界のすべてを敵に回してでも未来を与えたがった愚かな男が居たことを、は知っていたからだ。

ドンキホーテ・ロシナンテ。コラソンというコードネームで活動していた男は、
実の兄、ドンキホーテ・ドフラミンゴに殺された。
ピストルで何発も撃たれたロシナンテの死因は出血多量。
いくつかの内臓が損傷し、がロシナンテを見つけた時には何もかもが手遅れだった。
彼の最期の言葉を、は覚えている。
彼の死の味を、は覚えている。

の婚約者はドンキホーテ・ドフラミンゴに殺された。
・・・トラファルガー・ローのせいで。



いつのまにか腰の辺りに回されていた手にかなりの力が込められたのを感じ、は唇を離した。
全身の細胞に力が行き渡るような感覚と、満足感がある。
どうやらかなり吸い取ってしまったらしい。
にもたれかかったローがいつにも増して険しい顔で睨むので思わず苦笑が零れた。

「ちょっと、そんなに怖い顔しないでよ」
「黙れ。だから1週間経った頃に来いって言ったんだ。ちょっとは加減を覚えろ」
「あら、ミイラになってないだけ褒めて欲しいわ。
 あと目を閉じてれば多少はその目まいも解消されるでしょうに」
「お前がさじ加減を覚えりゃいいだけの話だ」
「私程能力を使いこなせて理性的な夢魔は他に居ないと思うけどね」

荒い息を吐いたローに肩をすくめると、ギロリ、と至近距離で睨まれる。
いい加減に重いのでソファに移動させると、は思わず零してしまっていた。

「でも、私に死なない程度に生気を与えようとする人間も、稀だわ」
「他に居ないとは言わないんだな」

言わなくても良いことを言ったと、
は心中で舌打ちした。

「ええ。かつての婚約者もそうだったからね。馬鹿な人だった」
「・・・おい、それはおれに馬鹿だと言っているのか」
「・・・他人の命を啜りとることでしか生きられない化け物に、
 進んで命を差し出す人間を、そう称してもおかしくないはずでしょう」

が言うと、ローは珍しく言葉を飲み込んだようだった。

「言っておくけれど、さっきの言葉は冗談じゃないわ。
 あなた達は夢魔の空腹を甘く見ているのよ。2週間耐えられる私が普通じゃないだけ。
 普通の夢魔なら相手を殺してる」
「だから俺が生気を渡してるんだろ」

ローはテーブルに置かれた帽子を目深に被ると呆れた、と言わんばかりにじとりとした目をに向けた。

「客員とはいえ、船に乗せた人間を餓えさせるような真似はしねえよ。
 当然、船員の命を背負うのも船長の役目だ。他の船員に手を出させるわけにもいかない。
 これが一番理にかなってる」
「・・・だからイかれてるっていうのよ」

苦い顔をしてるであろうに溜飲を下げたようで、ローは不敵な笑みを浮かべる。
ローに打算が一切無いというわけでは無いことは分かっている。
の能力はローにとって有用だ。魔眼、この力をローが重宝していることは分かっている。
しかし腹立たしくも認めざるをえないことに、ローが最初にへ生命力を譲渡した際に言った言葉は、
まぎれも無く、の心を揺さぶったのだ。



「何をしている」

ローに深夜、動物の生き血を啜る姿を見られたのは、今から2ヶ月程前のことだ。
の姿は正直まともじゃなかっただろう。
顔色は真っ青で、隈は深く、そして生きたままもがくカモメにかじり付く
幽鬼そのものだったに違いない。
ローの顔に微かな嫌悪感がよぎるのを見て、は眉を顰めた。

「見ての通りだけれど」
「見てて気分のいいもんじゃねえな。それに化粧で誤摩化しちゃ居るがその顔色は何だ。
 ・・・夢魔の空腹か?」

ローはの渡した本に一応は目を通したようだ。夢魔は人間の生気を吸い取らねば死に至る。
耐えられるとすれば概ね1週間。はさらに7日腹をすかせてしまっていて、
動物の生き血を啜りながらなんとか空腹を紛らわせている最中だった。

早く立ち去って欲しい一心では短く肯定した。
ローを食い殺すわけにはいかないのだ。

「そうよ」
「船員はだれも気づいちゃいない。お前の厚化粧に騙されたな」
「失礼だわ」
「・・・簡単だろう、お前なら、あいつらを誑かして生気を吸うこと位」

ローは値踏みするようにを見た。
は空腹故の苛立ちを抑えきれず、やや語気が強まったことに気づきながら、
それを止めることが出来なかった。

「私はあなたと契約したわ、ロー船長。あなたの船員を傷つけるわけにはいかない」
「そうだな」

簡単に肯定したローに、は思わず息を飲んだ。
その琥珀色の瞳には、ある種の覚悟が浮かんでいたからだ。
はたじろいだ。その覚悟を浮かべた目の持ち主を、はもう一人知っていた。

、おれから摂れば良い」
「何を・・・」
「決まっているだろう。動物の生き血じゃ気休めにしかならねぇと本にあったからな」
「・・・イかれてるわ、あなた、死にたいの?餓えた化け物に、生命力を差し出すだなんて」

ローは魔眼の持ち主であるはずのにしっかりと目を合わせて言った。

「別に寿命が縮まるわけでもねぇし構いやしない。それにお前が倒れたらあいつ等がうるさい。
 今でさえさっさと心臓返してやれだなんだと茶々入れてきやがる。
 お前がバカみたいにあいつ等を庇ったりするからだ。・・・それから一つ言っておく」

「人を生かす術を知っているのは人間だけだ」

愕然としたにローは小さな声で、受け売りだがな、と小さく続けた。

「あなた、私が、人間だとでも?」

自分の声がこんなにも低く震えるのかと、は思い知った。
そう言う言葉を聞くのは、これで2度目だった。
ローは何も言わない。言わないが、何か言いたげにをじっと見詰め続けるので、
は顔を上げざるをえなかった。

「・・・ロー船長、あなた、きっと後悔するわよ」
「さぁな、少なくとも、それを決めるのはお前じゃない」

不敵に笑うローの胸ぐらを掴み、は半ば自棄になって口づける。
いつかのように自身を人間だと言った男への口づけは不思議と悪い気がしなかった。