第七話 「葛藤」


の口づけを受け入れた時、ああ、これは確かに死ぬのも分かる、とローは納得した。
目を合わせたまま、は食むように唇を動かし、
やがて舌を伸ばしてなにかを啜りとるように口づけるのだ。
その度に覚えるのは背筋を電流が走るような感触、神経が焼き切れるような恍惚と快楽。
そして人間離れした、宝石のように発光する瞳への本能的な恐れと陶酔。

夢中で生命力を貪っているらしい、は気づいているのだろうか。

ローの手の平がのほっそりとした腰を支えるように回っている。
もしも欲望に忠実に行動するのなら、今すぐにを寝台へ縫いとめ、
その白衣を剥ぎ取って一心不乱にを犯して暴き立ててやりたかった。
だが、ローの脳みその片隅で、アラートが常に鳴り続けている。

に情を移すような行為は、あまりに危険だと。

だからの顔色に血の気がもどった時点で、ローはの腰を叩き、正気に戻す。
我に返ったは小さく息を吐くと糸を引いた唇を軽く手の甲で拭った。

そうすると今まで興奮と快楽の渦に放り投げられていた魂がとたんに現実に引き戻される。
異様なまでの倦怠感に、目一杯走った後のような動悸。
熱中症にかかった後のような目眩と、水に浸された時に感じる虚脱感。

思わずによりかかると、はそれを予想していたようにローの身体を支えた。

「・・・ロー船長、あなた、生きてる?」

の声は震えている。もたれかかるようにの肩に顔を埋めているので
表情を伺うことはできないが、おそらく途方に暮れた子供のような顔をしているのだろう。
ローは億劫だが短く返事をしてやった。

「ああ」
「・・・そう」

その安堵の声色が、ローの心中で暴れ回っていたものを、
容易く溶かしてみせたと気づいた時にはきっと遅かったのだろう。

情を移すのは危険。心を許すのも、身の内の全てを晒すのも危険だ。
ローは理解している。は夢魔だ。
夢魔に取り憑かれた男は死ぬ。
迷信と一笑に付すことはもうローには出来ない。

「あなた意外と我慢強いというか・・・今更というか」
「うるせぇな、線引きってのは重要なんだ」

落ち着いたら出て行け、と言い放ったローに、は意外そうな顔をした。
おそらく自らの口づけがローに何を齎すかわかっていたのだろう。
その後を覚悟していたらしいの無意識の誘惑にローは首を振った。

「お前は客員とは言え船員だぞ、それをおれがどうこうしてみろ、示しがつかねぇ」
「ああ、まあ、そういうことにしておくわ、ロー船長。
 ・・・私と寝た男は大体死んでるもの。賢明だわ」

黙り込んでを睨むと、はゆっくりと立ち上がって船長室の扉へ手をかけた。
は立ち止まる。静かな声で、は言った。

「・・・ありがとう」

パタン、と軽い音を立てて閉じた扉に、ローは目元を手の平で覆うと浅く息を吐いた。



はその夜懐かしい夢を見た。
戦場で、初めて婚約者に口づけたときの夢だ。
まだ彼は、が夢魔だと知らなかった。
その時は空腹に負けて、何も知らない彼から命を啜りとってしまったのだ。
まだ小娘だったはそのショックで泣き出してしまい、彼はとてもうろたえていた。

その時の彼の、途方に暮れたような、困った顔を、は今も覚えている。

『落ち着け、頼むから、泣かないでくれ』
『無理よ。私は取り返しのつかないことをしてしまった』
『おれはお前を傷つけるようなことは何もしない。何も怖く無いんだ、
『違う。私が傷つくんじゃない。私があなたを傷つけてしまう』
『なぁ、、お前どれだけ我慢した?ごめんな、お前がこんなに泣くだなんて・・・。
 辛い思いをさせてすまなかった』
『どうして私の心配をするの。あなたを危うく殺す所だったのに』
『おれは死なない。お前に殺されたりしない。現にほら、生きてるだろ!元気だ、おれは!』
『運が良かっただけよ。どうしてそれがわからないの』
、俺で良ければその、生命力をあげるよ。だからそんなに怯えることなんかないんだ』
『どうしてそんなことを言えるの』
『お前は人間だ。化け物なんて言うな。化け物ならなんでおれの傷を治せる?』
『どうして、』
『人間を救えるのは、人間だけだ。きっとそうなんだ。
 、お前がおれの傷を縫い合わせてくれたから、おれはこうして生きていられる』

夢の中の彼はの肩を掴んで抱き寄せた。

『だから頼むよ。今度はローのことも、助けてやってくれ、いつかのおれと、同じように』

「無理よ、私はまだ・・・、」

最後の言葉は、現実で呟かれたものだった。
目を開くと打ちっぱなしの鉄で作られた天井で、小さな電球が揺れている。
酷い夢だった。目尻をこぼれ落ちる涙には短く舌打ちをする。
気分と裏腹に鏡を見れば昨夜よりは顔色が良かった。空腹感も無い。

気を取り直して白いシャツに袖を通す。
デニム、トレードマークの白い薄手のコートを纏い、
踵の少し高いショートブーツを履くと食堂へと向かった。

扉を開けると、タイミングが良いのか悪いのか、はローと鉢合わせた。
ローはを見るなり眉を顰めたので、思わずは苦笑する。

「おはよう、ロー船長。ご機嫌いかが?」
「ああ、・・・見て分からねぇのか」
「いいえ、すごい顔色だわ。隈も深いし。爪に若干の変色も見られるわね」

ローはがしがしと頭を掻いた。

「ハァ・・・お前どうなってるんだこれは、一晩寝りゃなおるもんでもないらしいな」
「まぁ、本来相手を生かすことは想定されてないから・・・」

肩をすくめるに、ローは人でも殺せそうな睨み方をした。

「でも、”彼”は体格が良かったからかしら?それなりに回復も早かったわね」
「は?」
「あなた華奢だから。あと偏食。改善の余地あり、よ。
 なんなら組み手くらいなら付き合うけど?」
「・・・」

のからかうような言葉にローはカチンと来たらしい。
通りがかったシャチやペンギン達がローの表情に
ぎょっとした顔をするのを見て、は笑ってしまっていた。

「フフ、フフフフフ!」
「お前」
「だ、だってあなたそんなにムキになるなんて・・・フフフッ!」

無邪気に笑うに、ローは一瞬目を丸くした。
が、すぐに目を据わらせてROOMを展開する。
手に持っていたのコップがの心臓に早変わりした。
笑い続けるの心臓をローは突いた。

「あっ!痛いわよ、ちょっと何するの!?」
「お前は痛みに鈍感なようだからこの位でちょうど良いだろ、
 お前・・・あんまり調子に乗るなよ・・・」
「痛いってば!痛いって言ってるじゃないの!止めてよ大人げないわね・・・」
「お前おれより年上だろうが」
「たかが7つよ。大した差じゃないわ」

の口から語られた言葉にハートの海賊団のメンバーが一斉にどよめいた。
見た目は船長と同じ位、口ぶりから2〜3上くらいだと思っていたのが大半だったのだ。
ローも同じようなことを思っていたらしい、珍しく驚きを露にしていた。

「ハァ!?・・・お前・・・若作りにもほどがあるだろ」
「ちょっと・・・今どこ見て言ったの?何よ、悪い?」

どこか不機嫌そうに眉を顰めたにローは淡々と頷いてみせた。

「厚化粧って言葉に過剰に反応してたのもそれでか」
「・・・クソガキ」
「・・・あァ?」

珍しくギャーギャーと騒ぎだしたとローの軽口の言い合いを聞きながら、
シャチとペンギンはぽかんと口を開けた。

「なぁ、シャチ」
「なんだ、ペンギン」
「おれァ船長がガキみたいになるとこなんざ、想像もできなかったんだが」
「あァ、わかるよ。そんでさんも大人げねぇな」
「あとさァ、・・・あの2人なんか打ち解けてねェか?」
「あァ・・・なんかあったのかね?あ、さんまた心臓突かれてる」

止めていいのか悪いのか船員達が伺っているうちに、堪忍袋の緒をぶっちぎったらしいコックが
「うるせぇ!これでも食べてろ!」と船長の好物のおにぎりと焼き魚を出したのを見て、
2人は渋々矛を収めた。