幽霊と鷹の目


ペローナはを横目で見やった。
朝起きたら、は幾分消沈した様子で、ピアノを前に座ってはいるものの、
その指は鍵盤を叩きはしない。

いつも眠気覚ましにピアノを頼んで居たペローナとしては気にかかることだった。

「おい、弾かないのか」
「あら、ペローナちゃん、居たの?」

振り返って驚いたそぶりをするに、ペローナは頰を膨らませた。

「ぼーっとしてるにもほどがあるだろ!
 せっかく腕まで実体化できるようになったんだろ?
 あんなに協力してやってたんだから、呪いの歌でも歌ってくれよ」

は微笑んだ。どこか悲しげにも見える表情だった。

「そうねぇ・・・なら、”ファウスト”を」

そして、その演奏は始まった。
指が鍵盤を鳴らし始める。

悪魔メフィストフェレスが、
ファウストの恋人であるマルグリートを脅しつける、呪いの歌を。

「『過去を思い出すがいい 天使の翼の下
 お前の幸福が守られながら
 教会に足を運び 主を讃え
 主を崇めて居た時のことを』」

その声が響いた瞬間、部屋の空気が一変した。
ペローナの背筋を冷気が走る。
今までの演奏を聴いたことは何度もあったが、
これほどまでに鬼気迫る演奏は初めてだった。

「『慎ましい声で 清らかな祈りを 口にして居た時のことを
 母の口づけと神とを 胸に抱いて居た時のことを』」

「・・・え?!」

突然、夜になってしまったように、部屋が暗くなった。
ペローナの腰掛けて居た椅子の周りにモヤのようなものが漂い始める。
は演奏に集中しているのか、それらに気づいた様子がない。

白い指が鍵盤の上で、跳ねる。

「『あの叫びを聞け あれは地獄の呼び声だ
 お前につきまとう地獄
 永遠の後悔 永遠の苦悩
 永遠の夜の』・・・」

周囲の家具を始め、椅子が床に沈み込み始めて、
いよいよペローナは焦り、叫んだ。

!」

その叫び声に驚いた様子でが振り返る。
部屋はいつのまにか元の通り、が演奏する前の状態に戻って居た。

「どうしたの?ペローナちゃん。気に入らなかった?」

ペローナは自分が心臓が早鐘を打っていることに気がついた。
冷や汗が止まらない。

「わ、私は呪いの歌を歌ってくれとは言ったが、呪えとは言ってないぞ!?」
「・・・どう言うこと?私、何かしたのかしら?」

不思議そうに首を傾げるに、ペローナは状況を説明する。

「部屋が突然真っ暗になって、私の座ってた椅子が、だんだん床に沈んでいったんだ・・・」
「えええ!? そんなことってある!?」

意図せずに起こしてしまったらしい怪奇現象に、は驚いて居た。
しかしペローナの態度から嘘を吐いている様子もないと、信じることにしたらしい。
ペローナは顎に手を当てて、考えるそぶりを見せる。

「・・・お前、覇気を使ってただろ」
「ええ、そうね、演奏するには、そうしなきゃいけなかったから」
「だからだ、多分」

ペローナはに指摘する。

「歌にも覇気を無意識のうちに込めてたんだろう。
 多分、お前の”呪いの歌”のイメージが、歌を通して私に伝わったんだ」

「な、なるほど。そんな気がしなくもないわ」

感心したように頷いたに、ペローナは大きくため息をついた。

「聞きたがったのは私だけど、それ、気をつけたほうがいいぞ・・・」
「・・・ええ、そうね」

は頷いて、思案に耽り始める。
その様子を見て、また碌でもないことを考えているのではないかと、
ペローナはをジト目で睨んだ。



その日の夕方、は書庫に居た。

なるべく新聞を読むようにはして居たが、流し読む程度にとどめて居る。
世界情勢や、国の名前などは覚えたが、海賊に関しての記述はあまり見る気が起きず、
一面に出てきたら目を通すくらいだ。

また、突然の記憶のフラッシュバックが起きるのが怖かったのだ。

しかしふと、見覚えのある顔を見つけた気がして、はページを遡った。

「『ゲッコー・モリア』・・・」

そこにはモリアの写真が掲載されている。
おそらくかなり昔の、モリアが若い頃の記事だろう。
写真のモリアは、スリラーバーグで会ったときよりも幾分スリムな体型で、
目は野心に輝き、唇は恐ろし気に吊り上がっている。

いつしか、はその記事を読み耽って居た。

”四皇、カイドウと一時は渡り合う程の海賊だった”
”数年前、カイドウを相手に大敗を喫する”
”そのとき生き残ったのは、モリア一人だった”

は軽く息を飲んだ。

「一度、仲間を全員、失っていたのね・・・だから」

は写真のモリアに目を移した。
蘇るのはスリラーバークでルフィらに叫んだ言葉の数々だ。

『仲間なんざ生きてるから失うんだ!!!』
『全員が始めから死んでいるゾンビならば 何も失う物はねェ!!!』
『ゾンビなら不死身で!! 浄化しても代えのきく無限の兵士!!!』
『おれはこの死者の軍団で再び海賊王の座を狙う!!』
『てめェらは影でおれの部下になる事を幸せに思え!!!』

は目を眇める。
この記事を見てからその言葉の意味を考えると、
モリアの無念がひしひしと伝わってくるようだ。

「・・・今、どうしているんでしょうね、あなたは。
 死んだと言うのは、本当なのかしら。
 ペローナちゃんも心配して居たけれど」

に死後の世界について聞いたのは、もしかしたら、失ったモリアの仲間について
なにか聞きたかったのかもしれないと、ふと、は思い至った。

しかし、悪魔の実についてそれなりに精通して居たらしいモリアが、
を能力者として認識して居なかったと言うのはどこか引っかかるところがある。
あるいは、能力者だとわかって居ても、幽霊の存在を、信じてみたかったのかもしれない。

「ウフフフフッ」

は思わず笑ってしまっていた。
だとすれば”本物の海賊”と言うものは、随分とロマンチストだ。

「何か面白い記事でもあったのか?」
「ミホーク」

が振り返ると、ミホークが立って居た。
は胸に手を当ててため息をつく。

「あなたって本当に、私を驚かすのがお上手ね、心臓がいくつあっても足りないわ!」
「慣れろ。ペローナがお前を探していた。
 ・・・モリアの記事か。随分前のものだな」

ミホークは新聞の写真に目を向ける。
は頷いた。

「ええ、麦わらの一味は一度彼と戦っているけれど、
 まるで示唆に富んだ言葉ばかり聞いたから、少し気になって。
 彼は言ったわ。『真の悪夢は新世界にある』」

は腕の実体化を解き、ミホークに向き直った。

「プライドや信念を折られてしまうことは、
 時には死ぬことよりも耐え難いものなのかしらね」
「場合によりけりだろう」

ミホークは腕を組んで言った。
はその言葉に、意外そうな顔をする。

「・・・あら、意外だわ。
 あなたは”誇り高い死を選ぶ”と言いそうだと思っていたから」

の言葉に、ミホークは面白そうに口角を上げた。

「”誇り高い死”か、フフ・・・、そんなものはこの世には無い」
「え?」

瞬くに、ミホークは目を伏せる。
何かを思い出すようなそぶりだった。

「それは死人だけが持つことを許されるものだからだ。
 この世には残るまい。
 弔う側にとってみれば、そんなものは関係がない」

弔う側、はその言葉を口の中でなぞった。

「葬式も、餞も、墓標ですら、弔う人間のためにあるのだからな」

思えば、十字架のような大剣を背負って振るうミホークは、
常に弔う側の人間だったのだろう。

「・・・廃墟のはずれの巨大な墓標は、あなたが?」

野暮とはわかって居ても、は聞かずには居られなかった。
ミホークもわかっているのか、その口角に笑みを湛えたまま、言葉を濁す。

「・・・さぁな」

気をとりなおしたように、ミホークは改めてに顔を向けた。

「さて、長話が過ぎた。ペローナに口うるさくどやされるのはごめんだ。
 行くぞ」

はその前に一つだけ、ミホークに聞きたいことがあった。
”弔う側”のミホークならば、その答えを知っているのかもしれなかった。

「少し、よろしいかしら?」
「なんだ?」

は一度目を伏せ、それから顔を上げる。

「嘘が嫌いな人に、嘘を吐くのは、・・・どうしてだと思う?」

ミホークは暫く考えるそぶりを見せた。

「そうしなければいけないと、嘘を吐いた側が判断したのだろう」

は目を伏せて頷いた。

 ”そうせざるを得ない何か”
 それを知るのは、いつになることだろう。

「そう、・・・」

祈るように目を閉じたの所作を見て、
ミホークは軽く息を吐いた。

「話し足りないのなら、晩酌に付き合え」
「珍しい申し出ね」

顔を上げたに、ミホークは僅かに口角を上げる。

「お前の歌を肴にするのも悪くない」

冗談めかした口調だが、その目にはどこにも茶化す様子が見受けられない。

「・・・ますます、珍しいわ。もしかして酔っていらっしゃる?」

眉を上げて聞くに、ミホークは笑う。

「素面だ。生憎と」



夕食後、がミホークの晩酌に付き合うのはそれが初めてだった。

ゾロに禁酒を課しながら当のミホーク本人は浴びるように酒を飲み、
またゾロへ当て付けるようにペローナにまで酒を振る舞ったりするので、
酒を飲むのが好きなのだろうと察しては居た。

そもそも、城の食料庫の半分がワインの樽で埋まっているのだから嫌いなはずもない。
幽霊であるに酌をさせるミホークは機嫌が悪くはないようだったが、
時折鋭い印象の眼差しがを射抜いた。

落ち着かない気分になって、は口を開く。

「何か、歌いましょうか。リクエストがあるなら・・・あ、」
「どうかしたか?」

はペローナに呪いの歌を披露した際に起きたらしい怪奇現象を思い出し、
ミホークにそのことを打ち明けた。

「覇気を使わなければ、問題ないと思うのだけれど」
「・・・いや、やってみろ」

ミホークは面白そうに口角を上げ、を見た。
本気で面白がっている。

「どうせなら、処刑の場面でも演じてみればどうだ。
 お前なら”サロメ”でも”トゥーランドット”でもやれるだろう」

どちらも首を落とす場面が出てくる舞台だ。

「・・・悪趣味な人ね」

は呆れたようにため息を吐いた。
しかし、リクエストを聞くと言ってしまったからには、応えないわけにもいかない。
それにミホークならばどう言う怪奇現象が起きたとて対処もできるだろうと、
タカをくくったのである。

は深く息を吸い込み、演じ、歌い始めた。

「『砥石を回せ 回せ 回せ』」

その声には確かに覇気がこもっていた。

「『油をさせ 砥げ
 刃は 煌めき はね飛ばす 災と血を
 仕事は 決して暇にはならぬ 』」

歌うの周囲に、黒い霧のようなものが漂い始める。
のスカートの裾が、炎のように揺らめいた。

「『トゥーランドット様が支配なさるところ
 油をさせ 砥げ 炎と血を 手鉤とナイフを取れ
 愛しい恋人よ 前に 前に
 この銅鑼が鳴らされれば 姫様のお出ましだ
 玉のように白く 剣のように冷たい 麗しのトゥーランドット姫が』」

ミホークは目を眇めた。
異国の城の幻のような、陽炎のようなものがの背後に見える。
逆立つ竜の鱗のような屋根、それを支える血のように赤い柱、血を求める群衆。

「『銅鑼が鳴れば 処刑人は大喜びだ
 愛も虚しい 運がなければ』」

ミホークはいつのまに、身動きが取れないことに気がついた。
ミホークが覇気を込めれば、すぐさま破れるだろうゆるい拘束だったが、
はこれをおそらく”意図せずやっている”。

「『謎が三つ 死は一つ』」

そして、歌は徐々にクライマックスへと近づいていく。
ミホークは抵抗しなかった。
ただ単に、興味があった。

この歌が終わる時、どのようなことが起きるのか。

「『死にゆく者の魂を
 あなたのもとへ届け給え』」

がさっと右手を払った。

「『トゥーランドット!』」

瞬間、ミホークは首を刎ね飛ばされた自身のイメージを幻視した。

「きゃあ!?」

ミホークが覇気を用いて拘束を振りほどいた影響か、は吹き飛ばされてしまっていた。
頭に疑問符を浮かべ、唖然とミホークを見上げるに、
ミホークは我に帰ると自らの喉に手を這わせた。繋がっている。

「・・・なるほど? これは確かに、呪いに近いものがあるな。
 首を落とされるかと思ったぞ」

口角を上げるミホークに、は戸惑っていた。

「え・・・ええ?そうなの?」
「なんだ、全て意図せずやったことか、・・・つまらん」

「意図してやっている方が問題があると思うのだけど!?
 どさくさに紛れて殺そうとしてるってことじゃないの!?」

ごく当たり前の疑問を口にするの手を、ミホークは掴んだ。

その目には、様々な感情が渦巻いているように見えた。
中でもが一番に読み取れたのは好奇心だ。

「おれは”海賊”だぞ、

その声は、驚くほど真剣味を帯びて、の鼓膜を打った。

「のこのこと懐に入り込んではいけない類の人間だ」

その忠告めいた言葉に、は息を飲んだが、
二つ名にもなっているその鋭い眼差しを、やがて静かに見つめ返した。

「・・・そうね。でも、あなたがどう言うわけか
 懐まで入るのを許した私も、また”海賊”なのよ」

は目を眇める。

「――あなたは危ないものが好きなのね」

その物言いに、ミホークは目を見張った。意外なほど幼い表情だ。
はため息を吐いて、目をそらす。
やがて、ミホークは笑い出した。

「ハッハッハッハ!」

それからの手をほどき、また椅子に深く座りなおした。

「油断したな、させられたのか、このおれが」

「・・・どうかしら? でも少なくとも、私を”死そのもの”と言った人もいるから、
 油断するのはオススメしないわ」

肩を竦めるに、ミホークは思案するそぶりを見せる。
そしてゆっくりと口を開いた。

「お前は確かに、”死”を司る悪魔の実を食べたのかもしれん。
 人の魂を揺さぶる力を得たのだろう。
 魂から人を凍りつかせる力を」

それはも自覚していた。
ミホークでさえ、『首を落とされるかと思った』と言ったのだ。
モデルゴーストの悪魔の実の能力”魂への干渉”の方法として、
『歌う』『演じる』と言う手段が適していたのだろう。
恐ろしい力である。

しかし、ミホークはことも無げに言った。

「だが、お前はただの、悪魔の実の能力者だ。
 ”死”そのものなどでは断じてない」

驚いて顔を上げたを、ミホークは真っ直ぐに見つめていた。

「死人に未来は無い。だが、お前には明日がある。
 成長することができる。悪魔の実に、停滞を余儀なくされながら・・・」

何かを重ねて見るように、ミホークは僅かに目を細める。

「稀有な強さだ。武人であっても、それを持つものは少ない」

は買い被られていると思った。
一度自ら死を選んでいるような人間には過ぎた賞賛だと感じたのだ。

「でも、私は一度折れてしまったかもしれないのよ」

自嘲するように告げた言葉に、ミホークは静かに言った。

「――なら、繋げば良い」

ミホークの言葉には、叱咤するような響きがあった。

「一度折れた刀であっても、また打ち直すことはできる。
 それが最初よりも劣ったものであると、決めつけることは誰にもできまい」

はその時、その言葉を聞き漏らすまいと思った。覚えていようと思った。
これは、たとえ再び記憶を失うことがあったとしても、忘れてはいけない言葉に聞こえたのだ。

「お前には溢れるほどに時間があるのだろう。
 悩み、もがき、模索することで覇気の片鱗を覚えたお前ならば、
 するべきことは決まっているはずだ。努めろ、磨け」 

それは、記憶を思い出すことに、恐怖を感じ始めていたにとって、
これ以上ないほどの激励だった。

、お前が人間で居たいのなら抗うしかない。
 折れてもいい、砕けるな」

ミホークはそう言って、ワインを煽る。
は小さく息を吐き、笑った。

「・・・ミホーク、」
「なんだ?」
「ありがとう」

ミホークは眉を上げる。

まるで、礼を言われる覚えはないと言わんばかりのその所作に、
はクスクス笑っていた。