幽霊とバンダー・デッケン9世
魚人島ではマーメイドカフェがよく知られているが、
もちろん他にも飲食店は存在する。
例えばサンゴが丘の浜辺、テラスのある開放的な雰囲気のカフェレストラン。
”カフェ・コーラルスター”
人魚の入江からほど近く、椰子の木々が茂る奥まった場所にあるそのカフェはいわゆる穴場であり、
観光客や海賊は滅多に近寄らない。
はずだったのだが。
「ウフフフフッ、人魚の入江で女の子たちから、
オススメのお店を聞いておいた甲斐があったというものだわ。
人が少ないというのは良いことね、巻き込む人間も少ないわけだもの」
「落ち着かねェなァ・・・」
ニコニコと書いてもらったサインを眺めている麦わらの一味の幽霊と、
周囲を見回している指名手配犯、バンダー・デッケン9世がテラス席に座っていた。
二人を捕まえようとした店員や島民たちはの歌と「『お願い、邪魔をしないで』」
と言う覇気の籠った言葉に逆らえず、二人の海賊を遠巻きに見守ることしかできないでいた。
はノートをトランクにしまい、会話を切り出した。
「ウフフ、実は私、あなたのご先祖のファンなのよ。
オペラの”さまよえる幽霊船”。大好きなお話なの」
デッケンはなるほど、と頷いた。
確かに初代バンダー・デッケンの伝説はオペラにもなっている。
いかにも年若い女の好きそうな、恋物語に仕立て上げられていたはずだ。
「美しい物語だわ。本物のフライングダッチマンを拝見できたのも夢のよう。
そしてあなた、バンダー・デッケン船長の子孫だそうね?
確か9世だと聞いているけれど?」
「ああ、そうさ、おれこそがかの夢追い人の子孫、バンダー・デッケン9世だ!」
得意げに笑うデッケンに、は軽く首を傾げて見せた。
「あら、海賊は皆、夢追い人ではないの?」
「バホホホホ! その通り、このおれも夢を追っている。
先祖代々からの、成しがたい夢だ」
「ウフフフ、ロマンチストの一族なのかしら。
あなたはしらほし姫に”恋”をしている。
その上で夢を追うのは、・・・いささか大変なのでは?」
その問いかけに、上機嫌だったデッケンはうっかり口を滑らせた。
あるいはにこやかに笑い、耳触りの良い声と言葉で語る幽霊が、
その言葉を引き出させたのかもしれない。
「それは違うぞ、。どちらも同じことなのだ、ーーのハズだ!」
デッケンは周囲には聞こえないよう、声を潜めた。
「特別に教えてやろう。
我が先祖、バンダー・デッケンは”海王類”を従える人魚姫の伝説を追い求め、
遥か深海を目指したと、一族の間で伝えられている」
は一度瞬くと、顎に手を当てて考えるそぶりを見せた。
「もしかして、しらほし姫が?・・・それであなたは、彼女に求婚を?」
「バホホホホ!しかし、しらほしはおれの愛を拒絶した。
故におれはしらほしを殺さねばならない!
他の誰かと生きるしらほしなどあってはならないからだ!」
そう、”愛”のために殺すのだ。
そうすれば、しらほしは永遠に自分のものになるのだから。
デッケンは笑う。
まるで舞台の上で、定められたセリフを読み上げた俳優のような、
そんな仕草だった。
周囲にいた島民や店員たちは嫌悪感を隠しもせず、
デッケンを睨む。
しかし、やがてその笑い声は、別の声に掻き消えた。
目の前に座るが、俯き気味に肩を揺らして笑っている。
「なるほど、なるほど。ウフフフフッ!」
は顔を上げた。
口元には柔和な笑みを浮かべているのに、
その瞳は凍えるほどの冷たさを、もう隠しもしていなかった。
奇妙な威圧感に、デッケンは思わず息を飲む。
は囁いた。
「あなたに一つ、良いことを教えて差し上げましょう。
バンダー・デッケン9世さん。
あなたはこのままでは絶対に、しらほし姫の”愛”を得ることはできない」
「なんだと・・・?!」
「あら、『お座りになってくださる?』
・・・少々長話になりそうな予感がするのよ」
苛立って立ち上がろうとしたデッケンだが、
の言葉に体が石のように重くなって立ち上がることができずにいた。
思わずを睨め付けるデッケンに、は手を広げてみせる。
「では、一つ質問するわ。あなた、彼女の何を愛していると言うの?」
デッケンは目を眇めた。
が気分を害したのは、
デッケンが『しらほしの能力を求めて求婚を始めた』と聞いた時のように思えた。
動かない体を忌々しく思いながら、口元だけはシニカルな笑みを浮かべてみせる。
「・・・おれが先祖代々の夢故にしらほしを求めるのが気に障ったか、幽霊。
だが、現実なんて、そんなものだーーのハズだ」
歌劇を好む夢見がちな幽霊は、恋物語の登場人物の子孫の打算的な恋心に
さぞかしショックを受けたことだろう。
そんな風に考えていたデッケンの予想はあっさりと裏切られた。
「・・・何か勘違いしていらっしゃるようね。
”恋は錯覚、愛は幻”なのよ」
「は?」
思わぬ言葉に間抜けな声を上げたデッケンに、
は眉を上げ、それから高らかに宣言する。
「はっきりと申し上げるわ。
この世に純粋な恋だの愛だの、そうそうあるわけないでしょう!
全ては気の迷い! 全ては幻覚! 空想と勘違い、思い込みの産物だわ!」
「?!」
デッケンだけではなく、二人を遠巻きに見ていた周囲もの言葉に呆然としていた。
はデッケンに言い募る。
「大体・・・生まれ持った立場や容姿、才能だって確かにその人の魅力の一つ。
美しいものや優れたものを愛でたいと思うのは普通のことでしょう。
それに、しらほし姫なら海王類を従える才能を差し引いたとしても
その美貌や、優しさ、王女の立場。どこを取っても魅力的だわ。
詩人や小説家じゃなくたって彼女を褒める言葉はいくらでも思いつくでしょうね」
「・・・そりゃ、そうだな」
どうやらはデッケンがしらほしに求婚するに至った経緯については、
なんとも思っていないようだ。それどころか、むしろ理解を示している。
ならば、何が気に入らないというのか。
訝しげにを伺うデッケンに、は腕を組んだ。
「・・・良いこと?
”さまよえる幽霊船”のバンダー・デッケンは、ある少女を愛しながらも
彼女をひたむきに見つめていた恋敵である青年を認め、一旦は身を引くわ。
呪われた自身と、未来を生きる若者を天秤にかけ、
どちらが彼女にふさわしいかを自分で決めて、身を引いた」
「けれど少女は追いかけた。終いには命まで捧げ、その愛を証明してみせる。
なぜそうしたと思う? なぜ彼は愛されたと?」
デッケンは困惑に眉を顰めた。
「そ、それは物語だからで、現実とはちげェだろーーのハズだ」
「いいえ、このオペラに描かれるあなたの先祖は、今のあなたに足りないものを持っている」
はついに席を立った。
黒い霧がの後をついて回る。
覇気のこもった声が、朗読するようにすらすらと、長台詞を響かせる。
「”バンダー・デッケン”は海賊なのだから少女を脅してもよかったのに、そうしなかった。
自らの運命を呪い、嘆き、悪態をついても、
力ずくで少女に言うことを聞かせるようなことをしなかった」
大きく手を広げ、は声を張った。
「常に誠実であろうと努力したのよ!
少女を呪いを解くための道具でもなく、血をつなぐための道具でもなく、
財産と引き換えの商品としてでもなく、
対等な、一個の人格として扱ったのよ!
少なくとも、彼女の前では!」
呆気にとられるデッケンに、はとどめと言わんばかりに指摘した。
「それが”愛”というものだわ! ご先祖を見習いなさい!」
そしてその人差し指を、デッケンに突きつける。
「あなたはしらほし姫に恋を錯覚させることもできず、
愛に幻惑させることもできていない!」
「なっ、・・・?!」
つまり、はこう言いたいのだ。
『お前はしらほし姫を誑かす努力を怠っている』と。
そこから先は畳み掛けるような罵倒である。
「人一人の心を掴むこともできず、何が”夢”!?
あなたの愛を幸福だと思い込ませることもできず、何が”結婚”!?」
「あなたは万策尽きるまで手を尽くしたわけ?
中途半端に手紙を送り、返事がないことを逆恨み、
挙げ句の果てに自棄になって『手に入らないなら殺す』ですって?
・・・三流のやることだわ!」
「誑し込んで思惑通りのことを言わせることくらい出来ずにどうするの!?
海賊のくせに!」
デッケンは絶句していた。
それはもちろん、二人を遠巻きに見ていた周囲も例外ではない。
「おい、あの幽霊スゲーこと言ってるぞ・・・」
「止めなくて良いのかよ・・・」
「・・・割って入れる気がしねェ」
呆然と呟く周囲をよそに、はふう、と静かに息を吐くと、
席に戻り、デッケンに目を向ける。
「”海賊なら欲しいものは力ずくで奪うべき”
ええ、その通りよ。心をもぎ取るからには心で勝負、
9世さん、あなたの敗因は第一に、リサーチ不足にあるのだわ」
「・・・なんだって!?」
そしてはマシンガンのように話し始めた。
デッケンは圧倒されていた。
の熱い語りと、容赦なく繰り出されるダメ出し、
そして妙に説得力のある提案とアドバイスに気づけば聞き入っていた。
はたから見ると悪徳商法の勧誘を行うセールスマンと
カモにされている被害者のような状況であることに、彼らはまだ気づいていない。
※
の薫陶を受けた後
デッケンはと共にショッピングモールに立っていた。
奇妙な疲労感と、それから不可思議な信頼をに覚えながら、
デッケンはの後をついていく。
島民たちの一部も恐る恐る、二人をつけて歩いていた。
というよりも、デッケンはともかく幽霊であるをどう捕まえていいのかわからないので、
何かしでかさないか見守ることしか出来ないのである。
は人差し指を立ててデッケンに言い募る。
「まず、贈り物をするなら斧なんてよろしくないわよ。
消えもののお菓子とかからね。何が中に入っているのか一目で分かるものにするといいわ。
それから、なんにしても手作りは避けた方が無難よ。
食べ物は特に、何が入ってるのか定かじゃないものは受け取ってもらえないわ」
「・・・ほうほう」
は腕を組み、少々考えるそぶりを見せた。
「そもそも、本当は贈り物をいきなり送りつけるのもよろしくないのよね。
できれば護衛隊とかに志願して、そこから丁寧に時間をかけ、徐々に距離を縮めるとか、
そういうアプローチを取るべきだったのだろうけど、今となっては難しいものね・・・。
手紙の内容も簡潔に、今までの所業を詫びるものを括り付ければいいと思うわ」
「なるほど・・・」
デッケンはの言うことを逐一メモを取り始めていた。
はデッケンに尋ねる。
「大体、なんで斧なの?
しらほし姫に木こりの趣味でもあるのかしら?」
デッケンは気まずそうに目を泳がせた。
「いや、・・・あれはそう言う意味じゃなく、
”マリッジ オア ダイ”ってのがおれのポリシーだったのでーーのハズだ」
は穏やかに微笑んだ。
デッケンは猫背気味の背筋を可能な限り伸ばし、居住まいを正す。
「今は?」
「・・・”まずは信頼されるところから、小さいことからコツコツと”」
「よろしい」
デッケンの返事には満足げに頷いた。
「それにしてもあなたはどうやら本当に、彼女のことが好きなのね」
「なっ、何を言う!?
そもそも恋も愛も幻覚だと言ったのはあんただろうに!?」
頰を赤らめ挙動不審になるデッケンに、は眉を上げた。
「さっき『タイプじゃない』って言われて、本当にショックを受けているように見えたけど」
「・・・ぐすっ」
デッケンは先ほど受けたショックがぶり返してきたのか目に涙を貯め、鼻をすすっている。
二人をつけていた島民はぎょっとして騒ついていた。
「泣いた!?」
「泣かしたぞ、幽霊の嬢ちゃん、あのバンダー・デッケンを!」
しかし外野のことも気にならないのかデッケンはハンカチで涙を拭う。
「10年・・・そりゃあ最初は先祖の夢のためにと、あいつとの結婚を望んださ・・・。
だぎゃ、曲がりなりにも心待ちにした返事が『タイプじゃねェ』だったんだぜ・・・。
ヤケにもならァ、・・・結局、男は顔なのか・・・?」
唐突に弱音をこぼすデッケンに、
は呆れたように腕を組み、ジト目でデッケンを見下ろした。
「まぁ、悪くないに越したことはないけど、それは女の人も一緒でしょう」
「・・・あんたは器量良しだからわからねェ、おれの気持ちなんて、」
いじけるデッケンの肩をはバシバシと叩いた。
「・・・もう! メソメソしないでよ。
あなた割に褒め言葉は詩的かつ率直だし、
一週間に1、2回は手紙を送れたり、マメなところもあるんだから」
「ポジティブが過ぎるだろ!?」
ストーカーをマメと言い切ったに外野が騒ついている。
は「尾行の意味がないわねぇ」と呆れた様子で息を吐いたあと、
彼らには聞こえないよう、小さく呟いた。
「・・・私たちは愛だとか、恋だとか、
そんなあるのかどうかもわからないものを、あろうことか『信じたい』と願い、
そのせいで感情的になって振り回されて、疲れ果て、判断力を鈍らせて、
酷い時には命を落とすことも、命を殺めることもあるけれど」
デッケンはの横顔を伺う。
笑みを取り払ったその顔は、不思議とまっさらな”素顔”のように思えた。
「だからこそ・・・、この幻覚は何より脆く残酷で、美しく・・・尊いのよ」
しかしその顔はすぐに明るい笑みにとって変わった。
「話が逸れたわ・・・。とにかく! 相手の好みとかタイプなんて関係ないわ。
あなたがそんなものを超越した、いい男になればいいのよ」
「か、かっこいい・・・」
デッケンはノートにペンを走らせる。
は肩を揺らして笑っていた。
「ウフフフフッ、だからまず、年頃の女の子がどんなものが好きかとか、考えて見ましょう!」
※
デッケンとはショッピングモールのあちこちを見て回る。
雑貨店、菓子店、服飾店、様々な店を冷やかして歩きながら、
デッケンはを時折観察していた。
は幽霊である。そして海賊だ。
本物の死人なのか、悪魔の実の能力者なのかは定かではないが、
恋も愛も幻覚だと言い切りながら、それを”尊いもの”だと言う口ぶりに、
過去に恋愛沙汰で何かあったのかもしれないと、デッケンは推測していた。
・・・もしや、それが死因なのか?
デッケンは恐る恐るに尋ねた。
「ところで・・・あんたは錯覚だの幻だの言うが、恋、してたのか?」
「・・・そうねぇ」
は考えるそぶりを見せる。
何かを思い出したのか、その目は緩やかに細められた。
「死ぬ間際、どんなに短い時間でもいいから、側にいたいと思った人なら居たわ」
だが、その表情には苦味が混じっている。
「・・・ウフフ、誰かに出来もしないことを願わせるのなら、
それを愛や、恋と呼んでも良いのかもしれないわね」
デッケンが何か、口を開きかけた、そんな時だった。
ショッピングモールの中心に、
映像でんでん虫がのっそりと現れ、モニターが作動する。
『あー、全魚人島島民、聞こえるか?
俺は魚人街の『新魚人海賊団』船長、ホーディ・ジョーンズだ』
現れたホホジロザメの魚人に、デッケンは息を飲んだ。
「ハッ! おれァこんなことしてる場合じゃねェんだ!
ホーディと組んで王国を乗っ取る算段だったってのに!」
「なんですって!?」
デッケンの言葉には驚愕の声を上げた。
その間にも、モニターの中ではホーディの演説は進む。
ホーディは魚人島、リュウグウ王国を滅ぼして王に成り代わり、
魚人街に住む荒くれ者を中心に、嫌人間国家を作ろうとしているらしい。
その上、今までの王を処刑し、リュウグウ王国が悲願としていた地上への移住、
その足がかりとなる”天竜人の書状”を破棄し、
移住に賛成し署名した、人間と歩み寄ろうと願う人魚や魚人すらも皆殺しにするのだと息巻いている。
挙げ句の果てに、目を疑うような映像がの目に飛び込んできた。
「ゾロ、ウソップ、ブルック・・・!?
なんてことなの、捕まっちゃってるじゃない?!」
檻に入れられた3人の姿が映し出され、ホーディは麦わらの一味の船長、ルフィに対して、
一味全員見せしめにしてやるとはっきりと宣戦布告したのだ。
「9世さん、今の話は・・・」
「・・・ああ、残念ながら本気も本気だ。
国を乗っ取ることさえできれば
しらほしとておれと結婚せざるを得ないと思っていた・・・、だが・・・」
デッケンとてもう分かっていた。
「そんな方法で彼女を手に入れたとしても、しらほし姫はあなたを愛することはないでしょうね」
その言葉にデッケンも小さく頷いた。
は目を眇め、映像の切れたモニターを睨む。
そして、これから先、どうすればいいのかを葛藤しているデッケンを見て、
は閃いたのだ。
”海賊なら、誑し込んで思惑通りのことを言わせることができなくてどうするの?”
図らずも、デッケンに放った言葉は自分自身に返ってきた。
はデッケンに向き直る。
「9世さん、あなたはこれまでしらほし姫を怖がらせてきた。
その時点でアドバンテージは最悪よ」
「・・・!」
はなおも続けた。
「でもね、普段の行いが悪い人ほど、良いことをすれば印象値はずっと上がる。
例えば、これから魚人島の危機に立ち上がり
”真の愛に目覚めた海賊”になることだってできるわ」
「・・・・・・!!!」
デッケンはの言葉に息を飲む。
「私が考えたことは、きちんとメモにとっているんでしょう?
あなたマメな人だものね。
『できれば護衛隊とかに志願して、そこから丁寧に時間をかけ、徐々に距離を縮めるとか』
私さっきそう言わなかった?」
「だが、今からそれをやるのは、」
不可能だろう、デッケンはそう言いかけて、止めた。
デッケンの脳裏に稲妻が走った。
「・・・あんた、まさか!?」
驚いての顔を見つめると、はにィ、と口の端を上げ、
悪戯っぽい笑みを浮かべている。
どうやらデッケンと同じ閃きを、も得ていたらしい。
「今のあなたのモットーはなんだったかしら?」
そう問いかけられて、デッケンの口元にも笑みが浮かぶ。
それは海賊らしい、悪どい笑みだった。
「”まずは信頼されるところから、小さいことからコツコツと”」