トラファルガー・ローの献身


ローはのいる部屋へとオペオペの能力で移動した。
声をかけようとを探せば、シーザーのデスクに書類を並べ、眺めているようだった。

いつの間に着替えたのか、は髪を下ろしている。
昔よく着ていたワンピース姿だった。

そうしていると、時間が巻き戻ったかのようだ。
幽霊はいつまでも若く歳をとらないのだから、仕方のないことではあるのだが。

かける言葉を探すのに、その背を前にしてローは様々なことを思い返していた。



スワロー島で、ドフラミンゴと相対すると決めた日から、ロシナンテはローに稽古をつけ、
出会った悪ガキ2人とシロクマの面倒をまとめて見ながら旅をした。
ドフラミンゴと政府から隠れながら。

ローは闇医者の真似事をするようになった。
金さえ積めばどんな病もたちどころに治す若い医者がいると、北の海では評判になった。
オペオペの実のメリットもデメリットも実地で学んだ。
治せなければ命を狙われる場面を幾つもくぐり抜け、何かに取り憑かれたように腕をあげていく。

ローが手を尽くし治せなかった患者は居ない。死人だけが治せなかった。

成り行きで旅路を共にすることになったペンギンとシャチを、
ローは散々にスパルタで教育した。
反発されたこともあったが、ローがこう言い放つと、2人は黙る。

「おれの助手が務まれば、どこでだって食っていける。
 ・・・壊したり盗んだりはどんな馬鹿でもできる」

の言葉がローの中で生きていた。
何か思うところのあったらしい、ペンギンとシャチは
ローに素直に従うことも増え、ロシナンテはそれを見守っていた。

ペンギンとシャチを一人前の助手に育て上げるとローは「何処へでも行け」と言い捨てた。
ペンギンとシャチは「絶対に嫌だ、あんたらを手伝う」と
ローがバラバラにしようがロシナンテにぶん殴られようが、泣き喚いて着いてくる。
ローは仕方なく彼らを仲間にした。

ローはが死んだのと、同じ年になって旗をあげた。
子供っぽいとに言ったことがあったが、当たり前だと思い知る。
24歳は思っていたよりずっと子供だったのだ。

海賊旗を揚げるとドフラミンゴの手が伸びてきた。予想は付いていたことだった。
ローはそれを退けたが反撃はせず、刺客にはドフラミンゴに話があると伝えろ、と伝言させて帰した。
ドフラミンゴが聞く耳を持つ様子はないが、構わなかった。

ローは法外な治療代や他の海賊から奪った財宝の半分をドフラミンゴに送りつけた。
ペンギンは「なんで媚びを売るような真似するんだよ」と気に要らない様子だったが押し通した。
その甲斐あってかドフラミンゴの追撃の手は少しばかり減ったが、無くなりはしない。

年月は子供を大人に変える。
いつのまにかローの首には懸賞金がかかり、旅路を共にする仲間も増えた。
だが、変わらないものもあった、それが未だにローを縛り付け、生かしていたのだ。



いつかの甲板でロシナンテとローは話をした。
確か、ドフラミンゴの配下を退けた日だった。
仲間の何人かが負傷して、なんとか追い返すことはできたものの、かなりの損害を被ったのだ。

「執念深い野郎だな、あいつは」

ローの言葉に、ロシナンテは静かに頷いた。
タバコをふかして、海を眺めている。

「・・・そうだな」
「でも、もしおれがあいつなら、きっと同じことをする」

ロシナンテは小さく息を吐いた。

「やっぱり、直接乗り込むしかねェか」
「おれがもっと早く強くなってりゃ、
 ドフラミンゴをドレスローザに行かせずに済んだかもしれねェ。
 待たせて、悪かったな」

ロシナンテは顔をあげ、「違う」と言い募った。

「お前のせいじゃない! 本当は、おれ1人で、」
「無理だ」

ローは首を横に振る。

いざ、ドフラミンゴと敵として相対すると、
ローは自分の思考がドフラミンゴと似ていることに気がついた。
思いつく手段が似通っている。
だが、ローが選ばない選択肢を、ドフラミンゴは容易く選ぶことができるらしい。
それは歳を重ねた故の老獪さと世界に対する底なしの悪意のせいでもあった。

きっとローか、ロシナンテ一人では太刀打ちできなかっただろう。

「どちらか1人じゃ無理だった。でもコラさん。おれにはあんたが居る。
 1人じゃ無理でも、2人ならなんとかできるだろ」

日が暮れていく海を見つめ、呟くローに、ロシナンテはぽつりと零した。

「・・・おれを、恨んでるか」
「まさか」

ローは可笑しそうに笑った。

「死に損ないのガキのために、命懸けでオペオペの実を手に入れてくれた。
 あんたがいなかったらおれは死んでる。命の恩人だ」

「だが、おれは結果的にお前からを奪った」

ロシナンテの言葉に、ローは目を眇める。

「・・・おれに恨むべきものがあるなら、それは、”おれ自身”だよ」

は知っていた。
人を治すための手段は貪欲に知識を求める者にしか与えられないものだと。

かつて人を殺め、壊すことばかりを考えていたローは、それに気づくのが遅かった。
もっと早く気づいていれば、が殺される前に膠原病を寛解させることができたのかもしれない。
体力をつけさせることや、ドフラミンゴに掛け合って屋敷を歩かせることも。

「直接を殺したのはトレーボルでも、
 が殺される状況を作り上げたのはドフラミンゴと、・・・おれたちだ。
 誰が悪いわけでもないが、・・・誰が許されるわけでもない」

ロシナンテは奥歯を噛み、首を横に振った。
苦い笑みを浮かべている。

「言い出したら、キリがねェ」
「だからおれがドフラミンゴに伝えに行くんだろ。
 が裏切り者じゃないってことを」

ローは日の暮れた海に背を向けて、「中へ戻ろう」とロシナンテを促した。
ロシナンテはローの呟いた言葉に、何も返さぬまま、扉を閉めた。



アルドンサと言う女医の行方を追って、北の海のはずれまで足を運んだこともある。
ローの後任を務めた主治医の女は、今は孤児院の院長をしていた。
白いペンキで塗られた木造の孤児院は、子供の笑い声に満ちていた。

海賊が訪ねて来たと言うのにやけに落ち着き払った態度で出迎えられ、
ローは半ば拍子抜けしながらも、アルドンサと相対した。

アルドンサは沈着な女だった。
引っ詰めた黒髪にはところどころ白いものが混じり初めていて、年よりも老けて見えた。
だが、その眼差しには知性が光っている。

アルドンサはローを応接室へと招くと、紅茶を差し出して、静かに告げる。

「・・・あの方について知っていることはあまり多くありません。
 私はドフラミンゴ様に、ごく事務的に接するように命じられていたのですから」

が自殺する前に、お前はドンキホーテ・ファミリーから逃げ出した。
 何か知らされていたんじゃないのか?」

そう問いかけると、アルドンサは不意に目をそらし、
応接室の窓から見える中庭を見ていた。

様は、よく気がつくお方でした」

その声からは落胆のようなものが伺える。

「ご自分が命を狙われていることにも、
 残された命が少ないことも、よくわかっていらっしゃった。
 だから、”兄妹喧嘩”をされたのでしょう」

「お前はを狙う側の人間だった、そうだな?」

ローの追求に、アルドンサは目を閉じ、
それからローへと目を向けた。挑むような目つきだった。

「私を殺しますか、トラファルガー・ロー」

ローは沈黙した後、首を横に振る。

は、それを望まない」

それを聞いてアルドンサは驚いたように瞬くと、小さく息を吐いた。

「一つ、私の所見をお話ししておきましょう。
 私の見た限り、様は
 容易に自分の命を投げ出すような方には見えませんでしたが、
 ドフラミンゴ様が絡むとなると、また話は別だったように思うのです」

そう言うとアルドンサは立ち上がり、金庫の鍵を開けて、
首飾りをローに差し出した。

「これは?」
様からの頂き物です。
 おそらく、売って逃走資金にでもしろと、そう言うことだったのだと思います」

宝石と金をふんだんにあしらった絢爛豪華な首飾りは欠かさず手入れされていたのか、
色褪せることなく光っている。

「なのに、売らなかったのか」

「・・・私とて、恩義を感じることがあるのです。
 あの方は私を許してくださった。
 医者である手を、人の命を殺めて汚すなと言いました」

らしい言葉だった。
ローは目を細め、自身に差し出された紅茶の水面を眺めた。
アルドンサは紅茶に口をつけると、静かに告げる。

「この首飾りは差し上げます。あなたが持っていた方がいいでしょう」
「なんでそう思う?」

アルドンサは少し口角をあげた。自嘲するような笑みだった。

「私は様に満足な治療を施すことができませんでした」
「・・・それを言うなら、おれだってそうだろう」
「いいえ」

アルドンサは首を横に振り、首飾りを差し出す。

「あなたは確かに、あの方を癒していましたよ、トラファルガー・ロー。
 あの方はあなたのことばかり話していました。
 治療にはふさわしい対価が払われるべきです。
 持って行って、下さいませ」

ローは首飾りを受け取ると、孤児院を後にした。
船長室の本棚、記念コインの飾られた一角に、その首飾りは飾られることになった。



グランドラインの航海も後半にさしかかろうという時、
シャボンディ諸島で見聞きしたものは、ローにとって信じられないことばかりだった。
は幽霊になっていた。そして、何もかもを忘れていた。

麦わらの一味として、船長であるルフィや、喋る骸骨と楽しそうに言葉を交わし、
笑う顔は10年以上経っても何も変わっていない。
それなのに。

「私は、記憶を失っているの。
 自分の名前も、過去も、死因もなにもかもが分からない。
 ただ・・・あなたを見て、ええと、・・・懐かしい感じがしたから、
 もしかして、何か知っているのではないかと思ったの」

ヒューマンショップでそう告げられ、ローは目を眇めた。

記憶を失い、笑う幽霊は自由で、楽しそうだった。
思えば、かつて病に苦しんだにとって、
肉体は重い足枷だったのかもしれないとさえ思った。

しかし、ローにとって、”記憶喪失の幽霊”は””ではなかった。

何故ならこの幽霊は、ローを「私の小さなお医者さん」と呼び、
退屈を殺そうと本を読み、音楽を嗜み、
ローを慈しみ、兄たちに対する複雑な感情故に少々ひねくれていた、
あの日のドンキホーテ・ではない。

ローの心を奪った、”よく笑うローの患者”ではない。

だからローは、シャボンディ諸島でこう告げたのだ。

「忘れたままの方がいいことだってあるぞ、記憶喪失の幽霊」

瞬いたその目を、今度は真正面から見据える事が出来た。

「記憶を失う原因は、何らかの要因で脳が損傷するか、
 あるいは強いストレスである事が多い」
「ストレス・・・」

「人生の全てを忘れてしまいたいと思わせる出来事があったのかも知れねェ。
 ・・・大体、それを思い出してどうする」

幽霊は静かに目を伏せる。

「わからないわ。
 私は、大切なことを思い出したいと思っているだけだから。
 ただ、」

幽霊は言い淀むような仕草を見せた後、
それでもローに向き直った。

「私は”誰か”を置き去りにしてしまった気がするの。とても大切だった”誰か”を。
 記憶を取り戻さない限りは、私はその”誰か”に会わせる顔もないのだわ。
 だって、多分、記憶を失くした”私”は、その人にとっての”私”ではないのだもの」

ローは密やかに奥歯を噛みしめる。
幽霊に何も言わなかったのは、それが幽霊のためだと思ったからだ。

「ウフフ、幽霊の私が、その誰かの前に現れたところで、
 怖がらせ、傷つけるだけなのかもしれないけどね」
「・・・さぁ、どうだろうな」

ただ、わずかに声が震えたのは、感情を押しとどめた故だった。
しかし、それも一瞬のことで、ローはすぐに取り繕うことができる。

”笑え、煙に巻け”

が10年近くドフラミンゴとロシナンテを騙し通したように、
ローも同じ手段で幽霊をはぐらかすことができた。
名前も明かさず、幽霊とは別れた。

その日の夕方、シャボンディ諸島で別行動をとっていたロシナンテが
血相を変えて潜水艦に戻ってきて、
船長室で海図を睨んでいたローに、自分の見たことを並べ立てた。

「おい、ロー! が居たぞ!? 幽霊になってて、くまにつかまってて、
 くまの野郎あっという間にを消しちまった!」

ロシナンテは自分の話していることが支離滅裂なことにも気がついて居ない様子だった。
ローはロシナンテの話を聞くと、しばらく考えるそぶりを見せた後、静かに告げた。

「落ち着けよ、コラさん」

ローは冷静そのものだった。
その様子に、ロシナンテは眉を顰め、ローを怒鳴りつける。

「落ち着いてられるかよ、消えたんだぞ!?」

「くまの能力は”弾き飛ばす”力だ。
 幽霊は消失したわけじゃねェ。どこかに飛ばされただけだろう。
 麦わらの一味だって言ってたから、あいつらが探し出すなりなんなりするはずだ」

バーソロミュー・くまは、政府に忠実な七武海の一人だと世間的な評判は良いものの、
ローの調べた限りでは評判通りの男というわけではなさそうだった。
麦わらの一味を殺すことも捕まえて海軍に引き渡すことも簡単だろうに、
わざわざ生かしたまま”弾き飛ばす”能力を使ったのなら、何か思惑があるのだろう。

ローの仮説にロシナンテも納得したらしく頷いたが、引っかかることがあったのか、呟いた。

「・・・ちょっと待て、『言ってた』?
 お前、に会ったのか?」

ロシナンテはローを睥睨する。
ローは小さくため息をついて、ロシナンテの視線を受け止めた。

「・・・あの人はじゃないんだ」

ローの言葉に、ロシナンテは目を見開いた。

「は? いやでも! 顔も! 服だって全部、昔のままで、」
「あの人は記憶喪失の亡霊だ」

ローの告げた言葉に、ロシナンテは絶句していた。
ローは小さく笑うと、ロシナンテに問いかける。

「なァ、もし、あの人が本当にだったら、旅をやめるか?」
「・・・いや、止めねェよ」

ロシナンテはやがて首を横に振った。

ハートの海賊団はドフラミンゴに少しずつ、近づいてきている。
ドフラミンゴの動向を探る度、ドフラミンゴがますます薄暗い方向に舵を切って行くのが分かる。
四皇との取引、そして、人造悪魔の実の製造販売。
それをドフラミンゴがどう利用するつもりなのかを考えると、今は寄り道している場合ではない。

「だろ? だったら良いじゃねぇか」

ローは話は終わりだと言わんばかりだった。

「あの人は麦わらの一味の、記憶を失った幽霊。名前も覚えちゃ居なかった。
 でも、もし、あれがの成れの果てだったとしても」

ローは首飾りに視線を移した。

「あの人が、何もかも忘れて、笑っていられるなら、それでいい」

ロシナンテは黙り込んだ。
ローは再び海図を睨む。

ドレスローザ、新世界までは、まだ遠かった。