ドンキホーテ・の結論
ローが王下七武海となってからは、ドフラミンゴからの刺客はピタリと止んだ。
表立っての”仲間内での敵対”は称号剥奪の恐れがあるのだから、ある程度の想像は付いていた。
ロー率いるハートの海賊団台頭の阻止は、現状の地位を捨ててまで行うことではない。
そう判断してのことだろう。
”王下七武海”の地位の比重は、ドフラミンゴとローとでは異なる。
ドフラミンゴにとってはドレスローザ支配の要でもある地位だが、
ローにとっては単なる盾に過ぎない。
しかし、それでもローがドフラミンゴの喉元であるパンクハザードに足を踏み入れたのは
一種の賭けと言っても良かった。
即刻部下を派遣して、あるいはドフラミンゴ自ら足を向け、
ローを排除する可能性もあったのだ。
SADにはそれだけの価値があった。ロシナンテも懸念していたことだ。
だがローは、ドフラミンゴの性格を考えると、即時の対応は取らないと判断した。
「なぜ、そう思うんだ?」
「まず、おれの単独行動だと思わせることに成功したと仮定するが、
その場合、おれはシーザー、シーザーの部下、
それから、ドンキホーテ海賊団から派遣されている監視要員の相手をする必要があるだろう」
パンクハザード潜入作戦の詰めを行うために
船長室に来ていたロシナンテは難しい顔をしてローのデスクを睨む。
ローはパンクハザードの海図とドレスローザの海図を重ね、
パンクハザードをペンで指し示した。
ロシナンテは頷いて居る。
「まぁ、そうなるよな」
「さらに言うなら、ドレスローザからパンクハザードまでの移動は雲の道が途絶えてなけりゃ
数時間で可能だ。船を使っても、移動時間はさほど変わらない。
ドンキホーテ幹部らの増援は簡単にできる」
ロシナンテは腕を組み、ローの言わんとするところを察して目を眇めた。
「・・・ああ、なるほど、いつでもローを殺すことはできるってか」
「そういうことだ。そういう状況下なら、
暫くはおれの目的を探るために泳がせてもらえるだろう。
まさか、おれがカイドウを敵に回すようなイかれた作戦を練ってるとは思わねェだろうしな」
「ロー」
ロシナンテはローを嗜めるように呼びかけた。
ローは目を伏せ、海図を睨む。
「うまいことドフラミンゴと交渉の席を設けることができたとしても、
この作戦は危険すぎる。やっぱり、止めたほうが、」
「コラさん、今更ダメだ。作戦にケチつけるなら代案を用意しろ」
ローにはっきりと告げられて、ロシナンテは眉を顰めた。
「・・・生きて戻る気があるんだろうな?」
「はは、何言ってんだよ。勝手に死ぬのは無責任だ。
一船の船長なら余計にな。それより」
ロシナンテの心配に、ローは腕を組んで笑みを浮かべる。
「コラさんが作戦の要だぞ。禁煙、ちゃんとしろよな」
「・・・やっぱりダメか?」
ロシナンテは頭巾の上から頭をかいた。
ローは頑として譲らない、と首を横に振る。
「ダメだ。煙草吸うと8割燃えるだろ」
「匂いがつくとか、煙でバレるとかそういう問題じゃねェってのがまた情けないぜ・・・」
ロシナンテとローは顔を見合わせ、深いため息をついた。
何年経っても、ロシナンテのドジが回復する見込みはなかったのだ。
「名医なんだから治してくれよ」
「つける薬がねェ」
素っ気なく返されて、ロシナンテはがっくりと肩を落としていた。
その様を小さく笑いながらローは密やかに、ロシナンテをごまかせたことに安堵していた。
本当は、生きて戻る気なんかさらさらなかったのだ。
※
「ロー先生」
の声が、いつの間に思索に耽っていたローを現実に引き戻した。
ローは静かに顔を上げる。
はシーザーのデスクに置かれたレポートを気まぐれに捲っている。
「ウフフ、私は一人にして欲しいって言ったのに。
あなた昔もそうだったけど、私を一人にはしてくれないのね」
は振り返らずに、言葉を続ける。
「13年経っているのなら・・・幾つになったの?」
「26だ」
はページを捲る手を止めて、短く嘆息した。
「そう・・・私は24の時に死んだから、追い抜かれてしまったわね」
ぐっとローの顔が苦痛に歪んだ。
はようやく振り返る。
その表情は静謐で、不気味なほど冷静に見えた。
「手紙はね、賭けだったの。
伝わるか、伝わらないか、捨てられるか、捨てられないか。
わからなかったけれど」
「ドフラミンゴはお前の遺言通り、ちゃんとおれ達に手紙を寄越した。だが、」
ローが言い淀むと、は軽く首を横に振り、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「そうね。無責任に、死んでしまった私の言葉は伝わらなかったんでしょうね」
は暫くの沈黙の後、口を開いた。
「ねぇ、ロー先生。
普通に、お医者さんになって生きることもできたはずよ。
兄さんたちの事なんて、放っておいても良かったのに」
「できなかった」
遮るように告げられた言葉に、は瞬いた。
ローは口元に笑みを浮かべる。
「できなかったよ。そんなことは」
オペオペの実と同情を寄せられロシナンテには命と心を貰った。
ドフラミンゴには薄汚い世界と渡り合う力を授けられた。
そしてには、生きる理由を与えられた。
だから海賊になった。
自分が何に生かされているのかを、
忘れることはできなかったし、したくもなかったのだ。
「・・・お前は、おれの最初の患者だ。
治しきれなかったこと、途中で治療を止めたことを、後悔しなかった日はない。
せめておれにできることは、お前のダイイングメッセージを、
きちんとドフラミンゴに伝えることだと、そのために、」
ローは自身の口から溢れる言い訳じみた言葉に耐えられなくなったのか、俯いた。
「だがそれも、全ておれの、自己満足だ」
は首を横に振り、静かにローへ問いかけた。
「そんなこと・・・、危険な旅路だったのではないの?
ドフラミンゴはあなたたちを狙ったのでしょう?」
ローはそれを沈黙で返した。
が肯定と汲み取る事は分かっている。
はそっとローの側に寄った。
「ごめんなさい、・・・ありがとう」
ハッとローは顔を上げる。は苦しげに微笑んだ。
「"私の小さなお医者さん"」
ローは昔、その呼び方をされるのが嫌だったのだ。
子供扱いされているようで、のものになんかなった覚えはない、と反発した。
今はただ、懐かしい。
取り戻せない月日ばかりが脳裏に蘇る。
「あなたはもう、小さくもないし、私だけのお医者さんではないから、
こんな呼び方をするのは、相応しくないのかもしれないけれど」
は笑う。
「あなたが病に打ち勝って、成長した姿を見せてくれたこと、心から嬉しく思うわ。
・・・ありがとう、ロー先生」
黒い靄が、の体を通り抜けた。
幽霊だった手のひらが暖かな温もりを帯びている。
「あなたは昔から、私の生きる希望だった。あなたが居たから、幸せに生きたいと思えたの」
色を取り戻したその姿は、13年前と変わりがなかった。
生きている。ローのことを覚えている。
ローの目の前に、あの日のままの、が居る。
ローの頰に手を伸ばし、滴り落ちる涙をぬぐい、は苦笑した。
「ウフフ、いつかと逆ね。何も泣くことないでしょう? 笑ってよ」
「・・・思い出さねェ方が、幸せだったはずだ!」
ローはを怒鳴りつけた。
「ドフラミンゴの悪事も、不幸な記憶も、自殺まで追い詰められたことだって!
知らない方が、お前は傷つかずに済んだだろ!?
麦わらたちといる時のお前は、笑ってたんだ。ちゃんと、なのに・・・!」
忘れられていると知った時、殺されても、憎まれていたとしても、
こんな酷い心地はしないだろうと思った。怒りさえ覚えた。
「結局お前を巻き込んだ・・・! おれは・・・!」
ローは唸る様に、振り絞る様に言った。
「本当は思い出して欲しかったんだ、おれを、」
シャボンディ諸島で再び合間見えた時、本当は何もかもをぶちまけてしまいたかった。
そうしなかったのはの笑顔に陰りがなく、幸せなのだと思ったからだ。
だから遠ざけた。それなのに。
「会いたかった・・・! 、13年間ずっと・・・!」
もし、もう一度あの日のドンキホーテ・に会えたなら、
話したいことが山ほどあった。
仲間たちのこと、ロシナンテがドジを踏んだ山ほどのエピソード、病を完全に克服したこと。
名医と言って差し支えない医者になったこと。腕を磨いて、七武海になったこと。
子供なりにを心から、愛していたこと。
かつても細く頼りない佇まいだと思ったが、
こうして大人になり、その身体を抱きしめると、より一層実感する。
がローの背中に、縋るように手を回した。
「ごめん、ごめんなさい、ロー先生・・・!
私は、あなたに、なんてことを・・・!」
声が涙声に変わる。後悔にその声は震えていた。
「私のせいで、私たち兄妹のせいで!
ごめんなさい、どれだけ謝っても、謝り切れない・・・!
それなのに、私嬉しいの。ひどいことをしたって、分かってるのに、」
はローの肩口に額を擦り付け、縋る手のひらに力を込めた。
「生きていてくれてありがとう。あなたが、頑張ってくれたおかげで、また会えた。
私も、会いたかったの、ロー先生!」
ローはの頰に手のひらを沿わせた。涙が手のひらに滲んでいく。
いつかと同じように目を伏せたに額を合わせ、鼻先が掠める。
触れるだけの口づけだった。
いつの間に、涙は止まっていた。
は頰を薔薇色にして、笑っている。
緋色の瞳は柔らかく細められていた。
「ウフフ、おかしいわね。生き返った、気分だわ」
ローは再び、今度は強く唇を重ねた。
が小さく息を飲んだような気がしたが、
ローは目の前にある確かな輪郭を探るのに忙しく、
やがての驚愕も紅潮と恍惚の中に消えていった。
※
幽霊の姿に戻ったは、目尻を擦りながら静かに息を吐いた。
「どうするのかは決まったのか」
「・・・ええ、と言うよりも、あまり選ぶ余地はなかったのだけど」
ローはの表情に諦観と、そして硬い決意を見て取って目を眇める。
が選ぶ答えを、ローはもしかすると知っていたのかもしれなかった。
「ドフラミンゴの目的はこの世界を壊すこと。
戦争の火種を撒いて、多くの悲劇を生んでいると言うのなら、
私はそれを止めなくてはいけないわ。
・・・私自身に、全く責任がないわけでもないし」
は俯いたまま、魚人島での出来事を思い返していた。
マダム・シャーリーとの会話が脳裏をよぎる。
『・・・あんたは近いうち、”愛する人間”を、その手で殺すことになる』
あの時は誰を殺すことになるのか、思い当たる節などなかったが、
この状況になれば自ずと察しはついた。
「ロー先生とロシー兄さんの立てた作戦は、成功率が高いけど、
完遂してしまうとドレスローザ国民にまで被害が及ぶ。
・・・勿論彼らに責任がないとは言えないわ。
ドフラミンゴの自作自演を信じ込んだとは言え、
ドフラミンゴ王政を良しとしているのは彼ら自身でもあるのだから。
・・・でも、カイドウにドフラミンゴを狙わせるよりも、
もっと被害を最小化できて、単純な方法があるでしょう?」
は微笑んだ。ローは首を横に振る。
「無茶だ、、それに・・・」
「あら、私を誰だと思っているの?」
は面白そうに笑っていた。
ローにはそれが演技だとわかっている。
は気づいていないのだ。完璧に計算しつくされた微笑みは、
全く、不意に作られた笑顔には適うことなどないと言うのに。
ローは腹立たしく思った。
これに気づかないあの兄弟の目は節穴以下だと本気で思っていた。
「私にも、ドフラミンゴと同じ血が流れてる。父殺しの血が。
それなのに兄にはできて、妹にはできないなんてことが、あると思う?」
しかし、の出した結論に異を唱えることが、
ローにはどうしてもできなかった。
だから苦し紛れに問いかけるのだ。
「・・・本当に、それでいいんだな?」
「勿論」
は頷いた。
「今度は私が、引鉄を引かなくては」
色を失くしたその佇まいからですら、頑なな意思が伝わってきて、
もうローは止めることなどできないと思った。
だから嫌だったのだ。
思い出さなければいいことの方が、あまりにも多すぎるから。
なんとも言い難いローの表情を見咎めて、は苦笑する。
「ウフフ、そんな顔しないで、ロー先生。
私はきっと、ロー先生が思っているよりも我儘なのよ」
「・・・どう言う意味だ?」
首を傾げるローに、は笑うばかりだ。
「ウフフフフッ! それはみんなと合流してからお話ししましょう。
ちょっと待たせてしまったわ」
照れたように頰をかいているの表情は、
どう言うわけか、いたずらを思いついた子供のように生き生きとしていた。