ドフラミンゴの奥方
その日、が寝室に戻ると、部屋の中は酷い有様だった。
蓄音機の近くにレコードが散らばり、本は無造作に床に置かれ、
紙束が巻き散らかされている。
は特に表情を動かすことはなかったが、
足元に散らかされた紙を手にとって拾い上げながら、
窓辺に腰掛けたドフラミンゴに声をかける。
「どうも荒れておられるようで。・・・どうなさったのです?」
ドフラミンゴはを一瞥すると、再び窓の外に目をやって答える。
「パンクハザードが落ちた」
「・・・え?」
は弾かれたように顔を上げる。
拾い集めた紙束を取り落とすようなことはなかったが、珍しく驚愕を露わにしていた。
「モネもヴェルゴも死んだ。
忌々しい、ローと麦わらの一味の手にかかってな」
「・・・左様ですか。それは、」
はかける言葉を探して、黙り込む。
いつになく動揺するに、ドフラミンゴは笑みを浮かべた。
「フフフフッ、お前はモネを気に入っていたからなァ」
「彼女は年も近く、あなたに嫁ぐきっかけとなった方ですもの。
思い入れはありますよ」
気を取り直したのか淡々と返したに、ドフラミンゴは答えなかった。
はドフラミンゴの荒らした室内を淀みなく片付けていく。
「・・・ヴェルゴという方は、元は最高幹部だった方でしょう。
私自身は彼とあまり言葉を交わせませんでしたが、
長い付き合いとお聞きしております・・・寂しくなりますね」
本棚に本を戻す格好の途中で、の体が強張った。
動かなくなった体にも、は驚くことはない。ただ、小さく息を吐いた。
「ドフィ、突然糸を使うのはおやめくださいと、何度も申し上げているはずですが」
「今使った」
「・・・事後報告もおやめください」
の足は一人でにドフラミンゴの側へと歩む。
片膝を立てて窓辺に腰掛けていたドフラミンゴは膝を下ろし、
側に寄って来たを抱え込むように膝の間に座らせた。
は自由の効く首から上を動かし、ドフラミンゴを振り返る。
「呼ばれれば自ずから側に参りますのに。あなた、その口は飾りですか」
「フフフッ、言ってくれる」
ドフラミンゴは愉快そうに笑って指を動かした。
がドフラミンゴと向かい合うような格好になると、
糸で吊られていたような感触がなくなる。
の背中に回った腕が、ファスナーを下ろして素肌に触れる。
手つきばかりは甘やかだが、睦言の代わりにの耳へと囁かれるのは
極めて事務的な明日の予定のことだった。
「明日、おれは王下七武海を辞める・・・と、誤報を流す」
「・・・それが、相手方の要求ですか。
条件を、飲んだふりをするの、ですね? ん、」
「お前が相手だと説明が早くて良い」
身を捩りながらも平坦な言葉を返したに、
ドフラミンゴが笑みを深めた。
「、それで、実際は、王下七武海の地位を保ったまま、ローと麦わらを、おびき寄せる、と」
「そうだ。ローのことだから、どうせ海軍も手配してくるだろうしなァ」
確かに、王下七武海を辞めた海賊の統治を政府は許さないだろう。
だが、ロー自身も海賊との同盟を結んでしまっている。これもルール違反だ。
ドフラミンゴが七武海をやめずにローたちをドレスローザへ誘い出すことができれば、
海軍がどちらを捕らえようとするかは明白である。
ローの作り上げた状況を利用して、彼らを窮地に追い込むのだ。
は得心がいったように頷きながらも、目を眇める。
乱された衣服を見て吐息混じりにドフラミンゴを咎めた。
「・・・彼も、七武海、ですもの、ね。あなた、喋ってる間は、やめて、くださいな、」
「嫌だね」
笑いながらすげなく返されて、は嘆息する。
「・・・また、そのような、わがままを、おっしゃって、ぅ、」
指が下着の奥へと進むと、息遣いが早まった。
知り尽くした体だが、不思議と飽きたことはない。
普段は情熱などとは程遠い無表情の妻が大いに乱れてゆく様はいつ見ても哀れで、愉快だ。
「こうしてる間は気が紛れる」
「はぁ・・・っ、全く、困った人ですね、」
は諦めたように苦笑したようだった。
口角がわずかに上がってはいるものの、をよく知らない人間から見れば、
笑っているとは思えないほどのかすかな微笑み。
思えば、この表情を読むのにも慣れたものだ。
「このまま、続きをするのであれば、明かりを消していただければと、思うのですが。
そのくらいは、譲歩して、いただけませんか、ね?」
ドフラミンゴは瞬いた後、喉を震わせるように笑い出した。
「フッフッフッ、いつまでたっても、同じことを言うんだな、お前は」
「ふ、ふ。暗がりに、融け合うのが好きなのです」
いつかと同じことを言っても、その理由が異なるのだと、
は吐息のような笑い声を零した。
「闇の中、目が慣れても、天地が逆さになるような、
・・・目を瞑っているのかいないのかが、わからなくなって、
自分の輪郭がおぼろげになってゆく、あの感触、」
の表情は顔ではなく、声に出る。
陶然とした声色には、確かに年月を重ねた分の媚態が滲む。
「白日の下にあっては、できないことですよ。ふ、ふ、ふ」
ドフラミンゴは笑う妻の唇に齧り付くようなキスを落とすと、
希望の通りに明かりを消した。
このとき、ドフラミンゴは妙な違和感を覚えながらも、深く気に留めるようなことはなかった。
は普段、ここまで煽り立てるような物言いをしないのだが、
なぜ、今日に限っては媚びるような言葉を選んだのか。
その答えに気付いた時には、全く全てが手遅れだったのである。
※
昼過ぎには庭園に立っていた。
朝方から続いた、ドフラミンゴが流した誤報による喧騒も収まってきて、
日も高くなり、花々は日光に照らされ、各々鮮やかに咲き誇っている。
は黄色いバラにハサミを入れ、深く息をついた。
「なぜ、私の愛したものばかり、砕けて散ってしまうのか・・・、
それとも、私が壊れやすいものばかりに惹かれるのでしょうか」
の手のひらから花弁が落ちる。棘が切られ、葉が落ちる。
「それにしたって何も殺すことはなかったでしょうに。
海賊というのはだから嫌いなのです。
・・・まあ、最も、不可抗力ではあったのでしょうけど。
理解と納得は別物ですからねぇ」
蚊の鳴くような声で呟かれるのは愚痴のようなものだった。
聞く者のない声は無為に散らされる花弁と同じように、ひたすら地面に降り積もっていく。
「さて、あの”お医者様”。一体どうしてくれましょう。
私は少々意地悪な気分なのですが・・・おや、」
花々に手を入れていたの元に、パタパタと足音が近寄ってくる。
ドンキホーテ・ファミリーの構成員がの元に、緊張した面持ちで訪れたのだ。
はわずかばかりに口角を上げて、首を傾げて見せた。
「こんにちは、みなさま。
そんなに急いで、どうなさったのです?」
構成員の皆は穏やかに出迎えられて戸惑っているようだった。
代表と思しき男が意を決したように声をあげる。
「王妃様、若がお呼びです。すぐに”スートの間”に参上しろと。
聞き分けないようなら無理矢理にでも連れてこいとのことなのですが・・・」
躊躇いがちに告げられた言葉に、は眉を上げて見せた。
「あら、物騒な。そんなことをせずともすぐに参りますよ。何せ・・・」
はたから見てもそれとわかるよう微笑みを作る。
「最愛の夫のお呼び出しとあれば、応えないわけがありませんからね。
ふ、ふ、ふ」
近頃はこういう笑顔を作ることが多くなったと思いながら、
心にもないことを言ってのける。
の言葉にどこかホッとしたようなドンキホーテ・ファミリーの構成員達を率い、
はグローブとハサミをその場において、颯爽と城内を歩き始めた。
※
がスートの間に入って目にしたのは最高幹部のための4つの椅子。
ハートの椅子に縛り付けられたローとその前に腰掛けるドフラミンゴ、
バッファローとベビー5。ドンキホーテ・ファミリーの構成員が数名と、
縛られたドルド3世だった。
は状況を一瞥するとまず、ドフラミンゴに声をかける。
「お呼びと聞いて参上致しました。
・・・随分と物々しい雰囲気ですね。どうなさったのです?」
どうせ思惑通りに事が運ばず癇癪を起こす寸前なのだろうと、はあたりをつけていた。
ローの事を随分ドフラミンゴは買っているようだったし、
恭順させる事ができればとでも思っていたのだろう。
王下七武海にまでなった男が説得だの強制だのが効くような訳がない。
ドフラミンゴは自身を振り返って見るべきであると、は内心呆れていたが、
顔には出ずにすんだらしい。
ドフラミンゴは頬杖をついたまま口角を上げた。
「フフフッ、どうしたもこうしたもあるか。
お前の父親は孫と揃ってコロシアムの試合に出場・・・、
その上ヴァイオレットに至っては今朝から行方不明だ」
が思った通り、その機嫌は良くはなさそうだ。
言葉の内容からして、八つ当たりの口実は出来上がっているようにも思える。
面倒だな、と軽く眉を顰めつつもは夫の不機嫌を気にかける様子は見せず、
小さく首を傾げ、父親に目を向けるだけに留めた。
「へぇ、左様ですか。確か本日の賞品は・・・メラメラの実でしたね。
お父様、能力者になりたかったので? そういう話は聞いたことがありませんけれど」
「惚けるな、!」
ドルド3世が口を開く前にドフラミンゴがを叱責した。
その剣幕には部下の方が背筋を正している。
は深く息を吐いたのち、ドフラミンゴへと向き直った。
「・・・失礼を。あんまりピリピリされてるから場を和ませるつもりだったのですが。
私は話題選びが下手でいけませんね」
肩を落としたは、そのまま自身の頰に手を這わせた。
「私の身内の行動理由ですが、大方の想像はつきますよ。
コロシアムに出場した父と姪は、メラメラの実を口にして、あなたに一矢報いるつもりだったのでは?」
は淡々と、自分の身内がドフラミンゴを害する予定だったのでは、と予想してみせる。
そのそぶりにドフラミンゴは眉間の皺を深くすると、腕を組んでに尋ねた。
「ヴァイオレットはどうだ?」
「あの子はもう少し婉曲的な手段を用いるタイプですから、
パンクハザードを落としたとか言う、ローと麦わらの海賊同盟に
あなたを倒してもらえるよう工作してるのではないですか?」
は黙って自身を睨み上げるローを横目で一瞥する。
「例えば、城に手引きするだとか、警備の配置を教えるだとか。
いま幹部の皆様がどこにいるかとか・・・どれを行うにしてもギロギロの実は重宝いたします。
実際便利ですよ。ええ、彼女が味方であるうちはね」
軽快とも言える語り口に、ドフラミンゴはサングラスの下で目を眇めた。
「お前が指示したわけじゃあねェだろうな」
「ふ、ふ、ふ!」
は声を上げて短く笑う。
「お言葉ですが、私からでんでん虫を取り上げたのは他ならぬ陛下ですよ。
あなたの許可なく私はでんでん虫に触れることはできず、
常にファミリーの皆様から護衛を受けていたのに、どのように叛乱を示唆しろと言うのです?」
ドフラミンゴはの言葉に納得したのか黙り込む。
「そもそも叛乱に関わっていたのならこの呼出しには応じずさっさと逃げますし?」
ピシ、と部屋の空気が固まった。
はかまわずに口角を上げてみせる。
「クーデターを起こすならもう少し上手くやりますよ。周到に準備をします。
訓練せねばまともに扱えぬ悪魔の実を口にする事をあてにするような、
そんな行き当たりばったりじゃなくってね。ふ、ふ、ふ!」
大胆な物言いに、周囲はハラハラととドフラミンゴの顔を見比べているが、
黙り込んでいたドフラミンゴは一度深くため息を零した。
「・・・お前いい加減自分が滑ってることを自覚しろ」
「まぁ・・・ふふ、失礼」
は口元を覆ってわざとらしく肩をすくめてみせる。
ドフラミンゴは毒気を抜かれたらしく、その場の緊張感が多少緩和された。
その様子をローとドルド3世が眉を顰めながら伺っていると、
は不意にドルド3世へと目を向ける。
「それにしても、いつもお父様たちは私の面目を潰してしまわれる」
「!?」
ドルド3世にかけられた言葉は淡々としていたが、確かに咎めるような響きがあった。
「10年、平和で豊かな国づくりに得難い伴侶の力を借りて邁進してまいりましたのに、
一体何がご不満なのでしょう?」
「・・・」
ドルド3世は唇を引き結んだ。
のおかれる立場を考えるならば、今はドルド3世を糾弾してしかるべきだ。
だからこそ何を言われても黙ってやり過ごせるつもりだった。
「体制は変わりましたが国民は働かずとも生活のできる豊かな国になりましたよ」
それが国民に関することでなければ。
「・・・コロシアムの囚人たちは、小人は国の民ではないと言うのか」
表情を尖らせたドルド3世に、は無表情のままドフラミンゴを振り返る。
「囚人と民衆で扱いが変わるのは当然のことです。ねえ、陛下?
厳しい罰こそ秩序の要。そうでしょう?」
「フッフッフッ! あァ、そうだ。その通りだとも」
ドフラミンゴは突如として始まった親子の言い争いを面白い見世物のように思ったのか、
笑みを深めて見守った。
「それから、制度の面で申しますなら、ええ。小人はドレスローザの国民ではありません」
は残念そうにため息をこぼす。
ドルド3世は聞き捨てならないと目を見張った。
「・・・何だと?」
「ドレスローザの戸籍に、彼らは登録されておりませんので」
は腕を組み、ドルド3世を見下ろした。
「釈迦に説法とは存じますが、国を営むのにもお金はかかります。だから税を課すのです。
課した税は路面を舗装したり、家々を補修する補助金にしたりと、国民に還元する。
そう言うシステムですよね。小人は税を払わずに済んでおります。
なぜなら戸籍がないから。小人以外の国民にその存在を明かしていないからです」
淡々と説明していただったが、続いた言葉には呆れが伺えた。
「その上彼らの生活に困らぬ分の日用品を”盗む”許可まで先代の王は与えてしまった。
・・・愚策です。
なぜ小人を”特別扱い”しなければならぬのです?
同じドレスローザに住む”国民”であれば”平等”でなければなりません」
ドルド3世はそれにも理由がある、と口を開く。
「それはドンキホーテの王が彼らを奴隷として扱ったことへの償いで、」
「ならば統治を引き継いだ王家のみに償わせるべきでしたし
”国民の無知は罪”だと仰るのなら、当時から国民に小人の存在を明かすべきでした」
ぴしゃりと言葉を遮って断言したは冷ややかに目を細める。
「つまり、何が言いたいのかというと、
現状の小人たちは800年分ドレスローザが徴収できなかった
税金のツケを払わされているのです」
「詭弁だ・・・!」
もっともらしい理屈である。一見筋が通っているように見える。
だが血の通わぬ詭弁だ。
歯噛みしたドルド3世に、自身も頷いた。
頷いた上で、どうしようもないことだとため息をこぼす。
「仮に詭弁だとして、つけこむ隙を与えたリク王家の落ち度ですよ。
婚前から再三申し上げていたはずです。改革を進めるべきだと・・・」
の顔には何も浮かんでいなかったが、
声色だけは冴え冴えと尖っていく。
「正直に申し上げますが、私、こたびの騒動には大変うんざりしております。
この騒動のせいで”私の10年”が泡となるかもしれないのですよ。
それも、血の繋がった家族に足を引っ張られて」
口の端に、小さな笑みが浮かんだ。
「・・・いつまで私は身内の尻拭いをしてやらねばならぬのでしょうね?」
スートの間が静まり返る。
は体ごとドフラミンゴに向き直り、胸に手を当てて言い放った。
「陛下、忖度は結構です。私も含め、罰なら受けましょうとも、
ここはあなたの国。あなたがすべての采配を振るう国ですもの」
ドフラミンゴは眉を上げる。
「フフ、おかしなことを言うな、。お前に何の落ち度がある?」
首を傾げたドフラミンゴに、は淡々と答えた。
「あなたに弓を引いた者たちは私の身内です」
「あァ、そうだな。だが”お前”じゃねェ」
ドフラミンゴの声は愉快そうに弾んでいる。
「我が妻ながら同情するぜ。互いに血縁には恵まれねェなァ?」
金属音と打撃音がスートの間に響いた。
見れば、海楼石に捕らえられていながらも、ローが椅子の肘掛けを叩いたらしい。
拳は固く握られ、視線で人を殺せそうなほど、
ドフラミンゴとを睨みつけていた。
はかすかに目を細める。
「・・・あら怖い。どうやら彼を怒らせてしまったようですよ。
一体何がお気に障ったのでしょうね?」
首を傾げながら頭に疑問符を浮かべて見せたは、
しかしすぐに興味を失ったようにローから視線を外した。
「まぁ、彼の事情など、知ったことではないのですが」
はドフラミンゴに向き直り、今後の身の振り方を尋ねる。
「さて、いかがいたしましょうか。庭の手入れはキリがよく終わっています。
次は溜まっている仕事を片付けてしまいたいのですけど。
・・・私、ここにいる意味ありますか?」
ドフラミンゴはしばし考えるそぶりを見せたが、
すぐに顔を上げるとに笑みを浮かべた。
「いや。・・・手間を取らせて悪かったな、。下がって良い」
は眉を上げる。
「『疑ってすまなかった』までセットでつけてくれれば
なお良いとは思いませんか、我が亭主殿?」
悪戯めかした言葉に、ドフラミンゴは虚をつかれたのか笑みを解いたが、やがて静かに息を吐いた。
「・・・調子に乗るな」
「ふ、ふ、ふ!」
は笑いながら一礼して踵を返し、部屋を出ようとしたところで、足を止めた。
「ああ、そうだ。老婆心ながら一つご忠告を・・・」
振り返って、はほんのわずか、愉快そうに目を細める。
「シュガーをすぐにでも呼び寄せたほうがよろしいかと。
あなたの側が、一番安全でしょうからね」