さよならだけの人生に
ヨンタマリア号ではドンキホーテ海賊団との戦いで勝利した海賊たちの宴が続く、
空になったジョッキに酒が注がれたのに気づいて、ルフィがそちらに目をやった。
ブロンズ色の髪を結った女がルフィに笑顔を作ってみせる。
「ん? お前・・・」
口ごもったのは、ルフィがその女をどこかで見たことがあった気がしたからだ。
しかし、どうにも思い出せなくて、ルフィはこめかみを指で押さえた。
女はそれに意外そうに眉を上げたが、さほど怒る様子もない。
「おや、私をご存じないのですか。ではご挨拶から。
と申します。あなたには一言お礼を申し上げたく」
の言葉に、ルフィは首をかしげる。
その名前にも聞き覚えがあるような気がしなくもないし、
見覚えもあるような気もするが、ルフィ自身が直接に何かした覚えはなかった。
「礼? おれ、お前に礼を言われるようなことしたか?」
「ええ」
は頷くと、柔らかな声で言った。
「”元”夫をぶちのめしてくれてありがとうございます。
大変胸のすく思いでした」
ルフィが瞬くと、藤色の瞳が弓なりに細められる。
「あれはあなただからこそ、意味があったのですよ。麦わらのルフィ」
「・・・ふーん」
ルフィは腕を組んで、の言葉にやや投げやりに答える。
「あなたは若く、可能性の塊のような方です。天真爛漫で、自由で、何より身勝手。
”元”夫がこの上なく苦手とするタイプでしたから、」
「なぁ」
小さく笑みを浮かべて、淡々と言葉を紡ぐの言葉を、ルフィは静かに遮った。
常よりも随分落ち着いた声で、に尋ねる。
「お前、おれのこと嫌いだろ」
は目を丸くしたかと思うと、口角をつり上げた。
口元に手をやって、笑う。
「・・・ええ、もちろん。海賊はみんな嫌いですよ。ふ、ふ、ふ!」
吐息を零すように笑ったはするりとルフィのそばを離れた。
ルフィは立ち去ったの背をしばらく見ていたかと思うと、
注がれた酒に口をつけて、顔を顰めた。
「苦ェ」
※
がルフィの酌から戻ると、随分剣呑に声をかけられた。
「おい」
振り返れば厳しい顔をしたローが立っている。
は怪訝そうに眉を上げた。
「なんですか、そんな怖い顔をして。
まァ、あなた割といつも怖い顔ですけど」
「あいつに何かする気だったのか」
の冗談めかした言葉には触れず、ローは宴会の中心で笑うルフィを一瞥する。
はそれに気づくと納得しつつもため息をこぼした。
「・・・信用がないのですねぇ、悲しくなってしまいます。
お礼を言っただけですよ。一応彼は恩人ですので」
ローは半信半疑なのか、を無言で見つめている。
はジョッキを片手に腕を組んで、同盟相手を心配する男に笑みを向けた。
「しかし、勘の鋭いガキですね、彼は。海賊嫌いを見抜かれてしまいました」
「恩人に対する言い草かよ、それが」
さらりと暴言を吐いたをローは咎めたが、
かつての王妃は傲慢に、気にするそぶりさえ見せやしない。
「恩人だろうがなんだろうが海賊は嫌いですよ。
人のものを奪って蹂躙するばかりの、生産性のない無法者を好きになれと言われても無理です。
・・・それとも好きになって欲しいので?」
ローは眉根を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
はローから視線を外し、霧の先におぼろげに見えるドレスローザを眺める。
すでに捨て去った故郷に、は思いを馳せているようだった。
「それにしても、滅びなかったなぁ。しぶといんですね、王国って。
そう思いませんか、トラファルガー」
「・・・だが、とっくの昔にお前の王国は滅んでいた」
同情するような物言いに、は瞬いた後、小さく笑う。
「ふふ、詩的な表現ですね。ええ。10年前に私の国は死にました。
後に建った国は私が何より憎むものです。身内ですら今は憎らしい。
結局私もドレスローザの女だった。
情が深いから恋人が裏切れば刃傷沙汰になる。ふ、ふ、ふ」
ローはの言い草に目を伏せた。
ドレスローザの国民たちはドフラミンゴの支配を脱した後は
リク王にその統治を任せることにしたらしい。
復権したリク王たちはかつて国の発展に尽力したに触れることはなく、
国民たちも誰もあえての名前を口にはしなかった。
ドフラミンゴから解放され、自由を手に入れても、はドレスローザに影を落とす。
街で響く音楽も、手拍子とともに奏でられる調律もどこか虚ろに響いているのだろう。
一人の女をこれ以上なく踏みにじった上に、今のドレスローザはあるのだから。
「・・・私は彼女が居たから生きていけるのだと思っていましたが、
全く、死んでしまっても彼女に生かされる羽目になるとは思いませんでした」
はモネのことを考えていたようだ。皮肉めいた口ぶりで続ける。
「彼女がいなくとも生きていけるというのは、どうも、不義理な気分になりますね」
「・・・そういうもんだよ。大抵の人間っていうのは」
恩人を失っても平気で生きていけたことを思い返して、ローは苦い顔をした。
はその様に淡々と尋ねる。
「彼女を殺したお前が言いますか?」
「・・・」
言葉に詰まったローに、は口の端をつり上げた。
「ふふ。失礼。意地悪でした。お前は彼女の死の、要因の一つに過ぎません。
彼女はきっと自分で命を絶ったのでしょう。
彼女はドフラミンゴのためになら死ねる。そういう女でしたから」
の声は静かだ。必要以上に淡々と紡がれる言葉には有り余る後悔が滲む。
「もっと自分のために生きれたのなら、幸せにだってなれたのに」
だが、ふと、何かに思い当たったようで、はローへと目を移した。
「ところで、話は変わりますけど、トラファルガー。
あなたはなぜモネからお使いを頼まれてやる気になったのです?
敵対していたのでしょうに」
ローは何を思い出したのか苦虫を嚙みつぶしたような顔をした。
「お前との取引をドフラミンゴに報告しない代わりに渡してくれって頼まれたんだよ」
※
『ロー、一つ頼まれてくれないかしら』
モネがローに声をかけたのは、
パンクハザードの視察を早々に終えて、暫くたった日のことだった。
『なんだ?』
振り返ったローに、モネはノートを差し出した。
『これを、に渡して欲しいの』
ローは渡されたノートを受け取らぬまま、訝しむようにモネを伺う。
『・・・なぜおれに頼む? あいつはジョーカーの妻だ。
シーザーのコネを使って、自分で輸送船を手配するなりできるだろう』
モネは首を横に振った。
それから、挑むような目つきでローを見やる。
『しらばっくれても無駄よ。があなたに取引を持ちかけたのは知ってるわ。
それをあなたが”本当に”引き受けたかどうかまでは定かではないけれど。
・・・でも私は、それを”上”には報告しない。
その代わりに、頼まれて欲しいと言っているのよ』
ローは険しい表情で、モネの手からノートを受け取った。
苦々しさを隠しもしないローに、モネは愉快そうに口角を上げる。
『なんなら読んでくれたって構わないけど? 別に大したことは書いてないから』
『おれはこの中身に興味がねェよ』
モネが回りくどい手段を取りたがるのは検閲を恐れているのだろう。
だが、ローは冷たくモネの懸念を払った。
『わかってると思うけど、シーザーも私もあなたの言い分を信用してるわけじゃないわ。
言うなれば、これは保険なのよ』
嘆息するローに、モネは釘を刺してみせる。
ローは腕を組み、呆れ混じりに答えた。
『届ける保証もねェ、そもそもおれが再びあの女に会うつもりかさえ分からねェのに”保険”か?』
『それならそれで良いの。あなたの気まぐれと運に任せるわ・・・ふふふ』
『何がおかしい?』
思わずといったように吹き出したモネに、ローは眉を上げた。
『きっとは怒ると思って。
「運任せで言伝を頼んだりするのは不誠実だ」とか言いそう。
彼女、そういうことにはうるさいから』
『そうかよ。・・・おれを伝書鳩かなんかだと思ってんのか、お前は』
『いいえ。でも、あなた割と律儀よね。そういうところを見込んでいるのよ、私は』
そう言って、モネはローにノートを押し付けて去っていった。
※
ローは嘆息する。
今回がらみの出来事でかなり振り回された格好だ。
ローの内心の疲弊を知りもせず、
納得した様子のはローをからかうように眉を上げた。
「へぇ・・・律儀なことで。当初の計画では私に会わずに済む予定だったのでしょう?
わざわざ届けてくださってどうもありがとうございます」
「別に。ただの気まぐれだ」
ぶっきらぼうに答えたローに、は呆れた様子だ。
「はぁ。もう偽悪的に振舞う必要はないと思いますけどね。
だいたいあなた、何もかも計算尽くでしょう。私を殺す気などさらさらなかったのでは?」
沈黙したローに、は深くため息をこぼした。
「計算高い男は嫌いなのですが」
「・・・はっ、願ったり叶ったりだな」
「釣れない方ですねぇ・・・」
は何食わぬ顔でジョッキを煽る。
ローはドレスローザに未練も執着も残さないの横顔に、
なんとも言えない顔をした後、思わずこぼしていた。
「一つ、思うんだが、・・・ドフラミンゴはお前に愛着を持ってたんじゃないか」
「は? そんなわけないじゃないですか。何を言ってるので?」
半笑いで一蹴したを、ローは複雑な表情で見やる。
はしばらく怪訝そうな顔をしていたが、
どうやらローが本気でそう思っているらしいと気づき、嫌悪感を露わにしていた。
「・・・何を見てそんなことを言い出したのかは知りませんが、」
「お前の口上を聞いてから、あいつの覇気がなくなったように見えた」
思い当たる節があったのか、なかったのかは定かでないが、
は困惑と苦々しさを隠しもせず、呟く。
「ええ・・・? あれが目の覚めるような美女だったならともかく
・・・おっさんに好かれても、」
「おい」
ローは思わず突っ込んでいた。
が女しか愛せないということは当人の言葉でもモネとのやりとりを知る限りでも
真実なのであろうが、それにしたってひどい言い草である。
しかしは真顔でローに問いかける。
「いや、想像してみてくださいよ。
あなただってもし迫られるなら3m越えの41歳より
笑顔の素敵な麗しい女性の方が嬉しいでしょう? ねえ? 違います?」
呆れて言葉も出ない、という顔をするローに、
は「冗談の通じない男ですね」と態とらしく嘆いてみせた。
「いいじゃないですか本心を言っても。
この10年で私、一生分の悪態と嘘をついたんですから。
・・・どこかのお医者さんが非人道的な医療行為を拒んだせいで」
「居もしない子供の安否を一生心配し続けるんだ、立派な復讐だろ」
そう嘯いたローにはやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせる。
「あれが一生そんなもんを引きずるようなタマですかね?
にしてもあなたは全く。死にかけた女の懇願を無視するとは・・・」
ジト目で睨むを、ローは睨み返した。
「懇願というか脅しだった」
「海賊のくせにモラルがあるとは結構なことで」
皮肉めいた言い回しでローをなじったが、
は口元に手をやって小さく笑う。
「まぁ、身は軽くて済みましたが。
・・・ああ、そうだ。もうこれも必要ありませんね」
は未だに左手の薬指を飾っていた金の指輪を引き抜き、海へと放り捨てる。
突然の暴挙に唖然とするローを尻目に、は軽く息を吐いた。
「書類上の手続きはまあ、いいでしょう。
面倒ですからね。これで人妻じゃなくなりました。バツ1です。バツ1」
ローはおどけた調子のに疲れた様子で呟く。
「・・・お前の言動はなんというか、俗だな、」
『なんであなた、そういうところだけ俗なのよ・・・』
かつて聞いた言葉が重なった。
は瞬いた後、目尻を緩める。
微笑んだ顔は優しく、ローは思わず息を飲んだ。
しかし意外そうなローには構わず、は吐息を零すように笑う。
「よく言われます。ふ、ふ、ふ」
花園に死す 了