虚構の女
目を覚ました時、視界はやたらと明瞭で、
体は不条理なまでに怠く、重く、海楼石で拘束されていることは明白だった。
「目が覚めたかい」
ドフラミンゴが最初に聞いたのは馴染みのある声だった。
声をかけたのは海軍本部、中将つる。
大参謀と呼ばれ、老女ながらも纏う空気は全く衰え知らずだ。
「・・・あァ、全く、近年稀に見る最悪の寝覚めだな」
ドフラミンゴは嘆息する。
何しろ若造と侮った麦わらのルフィとローに完膚無きまでの敗北を喫した。
ドレスローザ王国は今やドフラミンゴの国ではなく、ドンキホーテ海賊団は壊滅しているのだろう。
つるはドフラミンゴの置かれる状況を語った。
「お前は七武海の称号剥奪。
ドンキホーテファミリー幹部、”コードネーム”
トレーボル、ピーカ、ディアマンテ、シュガー、ジョーラ、ラオG、
グラディウス、セニョール・ピンク、デリンジャー、バッファロー、
以上10名がインペルダウンに収監確定。
他、幹部以下のドンキホーテファミリーに関してはドレスローザ王国にて裁かれる。
・・・それから、お前の妻、は失踪したよ」
ドフラミンゴは目を眇める。
つるは淡々と言葉を続けようとした。
「捜索は続けられているが、状況は芳しくない。何しろこの混乱の最中だ。
海に身を投げたとの噂もあるが、」
「フフフフフッ!」
ドフラミンゴは喉を鳴らすように笑った。
つるは言葉を止め、ドフラミンゴに目を向ける。
「おつるさん、”元”妻だ」
「・・・なんだって?」
眉を顰めて聞き返したつるに、ドフラミンゴは諧謔味を帯びた声色で答えた。
「あいつにゃ混乱の最中に三行半を叩きつけられてなァ、フッフッフッ!
こっちの形勢が不利になった途端にだ。ひでェ女だろ?」
つるは少々目を眇めたが、特にドフラミンゴを非難する様子もなく頷いてみせると、
それ以上について触れはしなかった。
つるは事務手続きへと話を移す。
「衣服は一律で囚人服。靴は自前で結構。
装飾品は没収する規定だが、理由があれば免除される」
「お気遣いいただいて申し訳ねェなァ・・・! 理由ってのは賄賂のことか?」
「宗教上の理由とか色々だよ、バカタレ」
軽口を叩いたドフラミンゴにつるは厳しく言う。
肩を軽く竦め、ドフラミンゴは目を細める。
「ならサングラスを寄越してくれ、スペアがある。
おれの目は光に弱ェんだ。いいだろう?」
「わかった」
つるはドフラミンゴの嘘か本当かわからない言葉をあっさりと飲んだ。
中将のくせにやる気があるんだかないんだかわからねェな、と
ドフラミンゴ自身、意外に思ったほどである。
「あとはいいかい?」
何か書き付けているつるに、ドフラミンゴはしばしの沈黙のあと、口を開いた。
「左手の指輪は残してくれ」
つるは眉を上げる。
ドフラミンゴはサングラスはなくとも常の笑みを口元に張り付けた。
「”宗教上の理由”だ」
「・・・そうかい」
ドフラミンゴの言い訳を、つるは納得したのかどうなのかは知らないが、確かに受け入れた。
つるがその場を立ち去っていなくなると、
ドフラミンゴは硬い床に寝そべったまま目を閉じる。
思い返すのは、かつて妻だった女のことだ。
※
結婚して1年が経った頃、はいつかの朝食の際にこんなことを言った。
『少し真面目な話をいたしますけれど
私は政治的なあなたのやり口が好きではありません。
狡猾で、有無を言わせぬ、支配的なやり方です』
珍しく率直な批判にドフラミンゴは眉を上げた。
『へェ、そうか、それで? お前はどうしたい?』
『話は最後まで聞くものですよ、”ドフィ”。私はあなたを賞賛したいのです』
はさらりと愛称でドフラミンゴを呼ぶ。
その頃はまだ、がドフラミンゴをそんなふうに呼ぶことは少なくて、
ドフラミンゴは意外に思ったのだった。
沈黙するドフラミンゴに構わず、は淡々と言葉を続ける。
『でも、現実、国は滞りなく回っておりますし、国民からの支持率も悪くありません。
国を運営することがどれほどの責務かは私も存じ上げています。
あなたはそれをほとんど一人でこなしている。驚くべき才能です。
それは同時に、努力の賜物でもある。
才能だけで世渡りができる人間はおりませんとも』
の口ぶりに嘘はない。
ただ淡々と、事実を述べるようにドフラミンゴを賛美する。
ドフラミンゴは揶揄するように口角を上げた。
『媚を売るにしては下手くそだな。率直すぎやしねェか?』
はきっぱりと首を横に振った。
『私は世辞を言っているのではなく、素直に感服しているのですが』
半信半疑のドフラミンゴに、はため息を零す。
『あなたのやり口は好きではないと申し上げましたが、あなたは正解の一つを選んでいる。
国民の支持を得て、彼らの豊かな生活を支えていらっしゃる。
・・・その肩一つに』
はドフラミンゴの肩を指差して、ほんの少しばかり目を眇めた。
『・・・重いでしょう。さほど思い入れのない国の民であろうとも。
あるいは家族と呼ぶ者たちの掛け替えのない命であろうとも、等しく大勢がのしかかる。
その苦悩を、だれが分かってくれるでしょうか。
国を背負った人間の、ごく限られた者だけがこの苦痛を知るのです』
は支配者の苦痛を知っている。
その上あろうことかドフラミンゴを思いやるように続けられる言葉に、
ドフラミンゴは表情に出さないまでも、戸惑っていた。
『幸い、私は国を運営することに関して他の姫君よりは知恵がありますから
重荷の半分を持てましょう。我が亭主殿。
他ならぬあなたへの敬意故に』
共に国を支える覚悟であると誓うように告げられた言葉に、
ドフラミンゴはサングラスの下、目を眇めた。
『・・・そこは妻なら普通、愛とか答えるんじゃねえか?』
茶化すように言うと、は鼻白んだように息を吐く。
『本当に、妙なところでロマンチストですね、あなたは。
我々の間に新聞が書き立てたような激しい恋愛感情はないでしょう?』
『・・・』
切り捨てるように言い放ったに、ドフラミンゴはなんとも言い難い表情を浮かべた。
『まぁ、成り行きとはいえ夫婦になったのですから、育めば良いのでは?
努力はしてますよ。これでもね』
そう言って、はいつものごとく紅茶を飲み干したのを覚えている。
今思えば全く大した役者であると、ドフラミンゴは眉を顰めた。
あれは取りいるための言葉だった。あるいは、心にもない言葉だった。
しかし脳裏をよぎる、の人形のような顔から紡がれた言葉たちはあまりに穏やかで、
つい先ほど見たはずの鮮烈で苛烈な女こそ虚構のように思えた。
ドフラミンゴがに生まれを打ち明けたあとは、
何度かドフラミンゴの過去に触れるような会話をした。
『にしても、あなた、複雑な方なのですね。
天竜人に生まれたことは誇らしく、尊い血族であると認めているのに、
嫌いなのでしょう? 天竜人も、彼らが牛耳る世界も』
淡々と事実をなぞるだけのの声は耳によく馴染んだせいか、
ドフラミンゴはその声に素直に答えた。
『フッフッフッ。環境が人を作るんだぜ、。
奴らは恵まれている。何をしても許される。
そういう風に生まれついたからだ。それ以外に理由があるか?
それが気に入らねェならルールを変えるしかねェだろうが』
ドフラミンゴの言葉に、は顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。
『つまり、あなたは本来彼らと同じ立場にあって、
権力をほしいままに暮らせていたはずなのに、という風に考えているのですね?
・・・なるほど』
ドフラミンゴの考えを咀嚼して、何かに気づいたらしいは首をかしげた。
『でもそれでは、あなたはおそらくどうしようもない暗愚になっていましたよ、きっと』
『・・・あ?』
思わずトゲついた声色で聞き返したドフラミンゴに、はパチパチと瞬いた。
『そうではない? 環境が人を作るというのは、そういうことではないのですか?
多くの天竜人は世間知らずの子供のようだというか・・・、
一言で言うと”バカ”ですけど、そんな感じになってよろしいので?』
仮にも商売相手を、そして何よりこの世で最も尊いとされている世界貴族を
忖度なくバッサリと罵ったに、ドフラミンゴは閉口した。
時々にはこういう、常識というものを度外視した恐ろしいところがあった。
それに、その考えは間違ってはいないが、言葉が足りない。
ドフラミンゴが補足しようと口を開いた時、は「ああ、」と小さくため息を零した。
嘆くような響きに、ドフラミンゴは目を見張る。
『・・・失礼を。そういうことではなく、
あなたは取りこぼしたことを悔やんでいらっしゃるのですね。
あなたが失くしたものは、権力さえあれば失わずに済んだものだったから、』
沈黙したドフラミンゴにの眉が、小さく顰められた。
『あるいは、必要に駆られたが故に狡猾になったけれど、
別に、愚かでも良かったのですか? 私と、同じように』
『お前と同じ?』
聞き返したドフラミンゴに、は頷いた。
『世界の情勢が不穏で不安定であることにも無頓着になれたなら、
失策すれば大勢の人間の生活を支えることができなくなると怯えることもない』
口角には苦い笑みが浮かぶ。
『何を繕うこともなく誰かに弱音を吐露することもできたのかもしれません。
あるいは後先を考えず、自分の気持ちを押し付けることも
・・・もう少し、私が愚かだったならば』
その顔にはうっすらと苦悶が見えた。
いつも完璧な姫君を演じていたの苦悩は、普段なら面白い見世物のように映るのに、
その時ばかりは気に入らなかった。
ドフラミンゴは頬杖をついて問いただす。
『お前、姉の旦那に横恋慕でもしてたのか?』
ドフラミンゴの邪推には一瞬、何を言っているかわからないという顔をしたあと、
うつむき、震えだした。
『・・・ふ、はっ!』
笑っている。
それも、腹を抱えて。
『ははははっ、あ、あなた、急に何を言い出すのです!?
私が? お姉様の、夫に?! ふふふふふっ! 腹、捩れます・・・!』
『・・・』
『メロドラマの・・・見過ぎでは・・・!? はははははっ!!!』
笑い転げているをドフラミンゴはしばらく見ていた。
は落ち着こうと胸を押さえ、息も絶え絶えにドフラミンゴに向き直る。
『ちょっと・・・、笑わせないでくださいよ・・・。
普段使わない顔の筋肉を3年分は使いましたよ、今』
『知らねェよ』
素知らぬふりをしたドフラミンゴの耳に、の困惑の声が入ってくる。
『ええ?・・・何を怒っているのですか? どこが怒らせるポイントだったのでしょう?』
『さァな』
顔を背けたままのドフラミンゴに、は呆れを前面に出した声色で呟いた。
『・・・面倒な人ですねぇ』
『なんだと?』
『ふ、ふ、ふ!』
苛立って顔を向けたドフラミンゴを、は吐息が零れるように笑ったのだ。
あの顔は悪くなかった、と記憶を辿っていたドフラミンゴは感傷に目を細めた。
だが、あの時のドフラミンゴの予想は当たらずとも遠からずではなかったか。
だからはあんなにも声をあげて笑ったのか。
次に声をあげて笑ったのを見たのは復讐に哄笑したときだった。
思い返せば思い返すほど、過去にドフラミンゴに相対していたのは虚構の女である。
では、ドフラミンゴに語った全てが嘘だったのかと言えば、
そういうわけでもないだろう。王としての責務への苦悩や、国民と父への不満は本物だったはずだ。
しかし、どちらにせよ、は腹の底にあった憎悪を10年煮立たせ、隠し通して、
それを今日、ドフラミンゴに浴びせかけて去っていった。
そして海に沈んだ。自ら海に身を投げた。
ドレスローザの何もかもを見限って。
「そんなわけがねェよなァ?」
ドフラミンゴは口の端に笑みを浮かべた。
が自ら死ぬ訳がないと言う、根拠のない確信があった。
あるいはそれは、そうあってほしい願いかもしれなかった。
「お前は嫌がるだろうが、その性質はおれに近しい。
そう簡単にくたばるようなタマじゃねェ。まして有言実行の女だ。
孕んだガキを育て上げるまでは生き延びるだろう。
執念深い、どうしようもねェイかれたお前なら・・・」
ドフラミンゴは思い出す。
木漏れ日の差す庭園で、穏やかに花を愛でていた横顔を、
そして、瓦礫の山に立ち、全てを嘲笑ったその顔を。
「フフフッ! お前、10年連れ添ったくせに分からなかったのか。
おれがコケにされっぱなしで我慢できるような男だとでも?」
いつか幼い頃、燃え盛る炎の中で吼えたてた言葉をなぞるように、
しかし昔とは違う心持ちで、口にした。
「・・・このまま終わらせるものか。必ずお前に会いに行くぞ、おれは、」
ドフラミンゴは拘束され動けないまま、唯一自由の利く手のひらを握りしめた。
残った金色の指輪が薬指で光る。
その時はバラを贈ろう。あの日お前が手折らなかった、朝日に燃える金のバラがいい。
トゲの鋭い、花びらの大きなものを選んで束ねてやろう。
湧きあがったのがいつかと同じ憎悪なのか、怒りなのか、自分でも分からぬまま、
ドフラミンゴはインペルダウン、”地獄”へと向かう。
10年もあれば、そこから這い上がるのは難しくないと、笑いながら。