crush on you


    ロシナンテが、手の平を、誰かに握られていたことに気がついたのは、
    完全に意識が戻る少し前のことだ。
    小さな手だった。
    かなり大柄なロシナンテの手の平と比べるのはおかしいのだろう。
    優しい、それでいて切実な声がした。

    「あと、もう少しだから頑張って、・・・”生きて”」

    自分の心臓の鼓動が、そのときやけに大きく聞こえたのは、きっと気のせいでは無かったのだろう。
    ロシナンテは緩やかに目を開けた。

    まず一番に飛び込んで来たのは宝石のように煌めく灰色の瞳だ。
    徐々に視界が広がると、その瞳の持ち主が女性であることに気づく。
    すんなりと伸びた手足を白衣に包んでいる。
    女はロシナンテのものとは少し色味の異なる金色の髪を括り、針と糸、注射器を持っていた。
    医者なのだろう。
    女はロシナンテが意識を取り戻したのを見て、その目を大きく瞬いた。
    星が弾けているような、錯覚を覚える。

    「・・・!意識が戻ったの?」
    「おれは・・・いったい・・・」
    「喋らないで!重傷なんです、ロシナンテ少佐」

    女の言葉に忘れていた痛みと熱が蘇ったようだった。
    特に腹に凄まじい痛みを覚え、ロシナンテは奥歯を噛んだ。
    痛みが記憶を呼び起こさせる。
    任務の最中、後ろから海賊に剣で刺されたのだ。それもかなり深く。
    呻くロシナンテに手早く麻酔を施した女は、険しい顔つきで処置に当たる。

    「あと少しだけ我慢してくださいね。・・・必ず助けます」

    麻酔でぼんやりとする意識の最中、ロシナンテはその顔を眺めていた。
    重症だと知り、それに相応しい痛みも、朦朧とする意識も、
    命に関わりかねない傷に違いないと漠然と感じていたが、
    同時にそれらをどうでもいいと思っていたのだ。

    できるだけ長く、その人の声を聞いていたいと思っていた。
    今まで会ったことの無かった、名前も知らないその人を、覚えておきたいと感じたのだ。
    次に目が覚めたら、名前を聞こう、そう思って、ロシナンテは静かに目を閉じた。



    「ああ、それなら最近軍属した女医だよ。たしか軍医って言ったかな。
     下の名前は、だったか?まだ若いが腕が立つと噂になってるぜ。
     彼女は普段つる中将付きで、こちらには人手不足で派遣されてきたらしい。
     今は軍医も戦場をかけずり回らないとならんから、なかなか大変なんだろうなァ」
    「へえ」

    煙草をふかしながら情報に明るい同期、セルバント少佐が言う。
    同じように煙草に火をつけたロシナンテは、腹にできた大きな縫い目を服の上から撫でた。

    目が覚めた時には、ロシナンテを手当てした医者、は居なかった。
    会って話がしたかったのに、と零すと、セルバントは面白そうに口の端を上げた。

    「そんなこと言うなんて、お前にしては珍しいな、ロシナンテ。
     惚れたのか?」
    「ゲホッ・・・!」

    煙草を思い切り吸い込んでしまい、ロシナンテは咽せる。
    「おいおい、大丈夫かよ」とセルバントは苦笑した。

    「吸い始めたばかりでもあるまいしドジだなァ、
     それがなけりゃお前もっと早く出世出来ただろうに」
    「・・・ほっとけ。生まれつきなもんはしょうがねェだろ」

    ロシナンテとて、自分のドジっ子ぶりにはほとほと嫌気が刺すときがあるが、
    治らないものは治らないのだからしかたない。
    セルバントはニヤニヤ笑っている。

    「しかしおれも遠目で見たが、確かに美人だったな、あの子。
     で?どうなんだ?近頃浮いた話もなかったお前にも春が来たのか?」
    「お前、面白がってるだろ」
    「そりゃな。お前は見てくれも悪くないし良い奴なのに、
     どっか壁張ってるとこがあるからな、友人として、
     結構心配してるんだぜ、ロシナンテ」

    冗談めかして言ってはいるが、本心なのだろう。
    ロシナンテは僅かに言葉に詰まった。
    その様子を見て、セルバントは首を振る。

    「別に言いたくないことなら言わなくて良いよ。
     誰にだって言いたくないことの一つや二つあるもんだ」
    「・・・悪い」

    ロシナンテの硬い声に、セルバントは肩を竦めてみせた。
    その顔に、にやついた笑みを浮かべたままに。

    「ま、お前の恋路を揶揄いはするがな」
    「セルバント、悪いって言ったの撤回するよ。
     お前本当に悪趣味だ」

    ジト目で睨むロシナンテにセルバントは笑った。



    ロシナンテが8歳の頃から見習いとして海軍に入隊して、今年で12年が経つ。
    センゴクに拾われ、息子同然に育てられて来た。
    幼い頃に負った傷は、海賊との戦闘時に負った傷に今はまぎれる。

    ロシナンテが、がむしゃらに己を鍛え、悪魔の実を口にし、階級を上げて来たのは、
    何のためかと言えば、センゴクに育てられた恩を返したいと思ったのと、
    もう一つ。
    北の海に残して来た兄。ドフラミンゴの悪逆を止めるためである。
    数年前、兄の手配書を見た時に、ロシナンテはショックを受けたと同時に納得もしていた。

    僅か10歳で自分の父親を殺し、その首を切り落として、
    故郷へ帰り、再び天竜人としての権力を得ようとした兄。
    その兄が、真っ当な人生を歩んでるはずがないと、思ったのだ。

    12年間、ロシナンテにとって、訓練や戦闘は辛かったが、
    海軍で過ごす時間は幸福だった。

    大将、センゴクは親のようにロシナンテを叱り、褒め、育んでくれた。
    ロシナンテのドジを笑い飛ばしてくれる友人も出来た。
    だが、彼らと冗談を言い、笑いあっている時でさえ、
    ロシナンテの脳裏にはドフラミンゴの影がある。

    止めなければ、と思ったのだ。

    かつて恐れをなして、置いて来てしまった兄。
    後悔している。もしも一緒にセンゴクに拾われていたなら、
    違う未来があったかもしれないという考えがよぎることもある。

    故に、ロシナンテは思うのだ。
    その兄を、止めることが自分の使命なのだと。

    だから、セルバントらが心配していると分かってはいても、
    恋とか、そう言うものに時間を割くわけには、
    そして何より、誰かに自分のことを全て打ち明けるわけにはいかないと思っていた。

    思って、居たのだけれど。



    「あ、」

    ロシナンテがマリンフォード本部でに出くわしたのは、全くの偶然だった。
    そのとき、は何冊も分厚い本を持っていた。
    心なしその腕が震えているのは目の錯覚なのだろうか。
    ロシナンテは思わずに近寄った。

    「あの、良ければ少し持とうか」

    が顔を上げる。
    ロシナンテは内心で息を飲んだ。
    やはりその目には、引力のようなものを感じるのだ。
    は困ったように笑った。

    「ありがとうございます。
     でも、怪我をした方に、荷物を持たせるわけにはいきません、
     ロシナンテ少佐」
    「・・・、覚えてたのか?」
    「医者ですもの。患者の顔は忘れませんよ」

    は微笑んだ。
    ロシナンテは、その笑みに、居ても立っても居られなくなって、素直な言葉を口にする。

    「ずっと、礼を言いたかったんだ」
    「え?」
    「ありがとう。軍医のおかげで、おれは死なずに済んだ」

    その時の、の表情の変化が、目に焼き付いたのが自分で分かった。

    ゆるゆるとほどけて行く唇。微かに潤んだ瞳が柔らかく細められていく様。
    喜びでバラ色に染まる頬。まるで純粋な少女のような、蕩けるような笑みだった。

    「いいえ、ロシナンテ少佐。
     私は当然のことをしただけです。
     あなたが生きていて、良かった」

    誇らしさを含んだ、優しい声がロシナンテの耳を打つ。
    社交辞令のような言葉なのに、の声で紡がれただけで、
    なぜだか泣きそうになってしまった。
    生きていてくれて良かったと言う言葉が、こんなにも甘く響くとは知らなかったのだ。



    「それは恋だな、誰が聞いても恋だろ。
     春だなァ、ロシナンテ君・・・なんで頭抱えてんだよ、お前」
    「だってよォ、セルバント。おれァそのあとテンパって本を軍医から取り上げて、
     そのまま図書館へ返却しちまったんだ。もしかしたら使う本だったのかもしれねぇだろ・・・」
    「お前一体何やってんの?」

    ロシナンテは酒を飲みながらセルバントに絡んだ。
    自分でも挙動不審だった自覚はある。
    それでも、冷静では居られなかったのだ。

    「反則だ。あんな風に笑われたら誰でも落ちる。3秒で落ちる」
    「へえ?おれは彼女、あんまり笑わないって聞いたけど」
    「は?」

    セルバントは面白そうに笑っていた。

    「愛想笑いくらいはするみたいだけどな。
     ただ・・・少々きなくさい噂が出て来た。
     彼女、サイファー・ポールからの推薦で軍属したんだそうだ」

    セルバントの言葉に、ロシナンテは首を傾げる。

    「サイファー・ポール?政府の諜報機関だろ、何で彼女が・・・」
    「どうも最初は諜報部員としての訓練を受けていたらしいが、
     向かないからって軍医に転向したらしい」
    「・・・諜報部員から軍医にそう簡単になれるもんなのか?」
    「なれないから怪しいんだろうよ」

    セルバントが考えるようなそぶりを見せる。

    「ただ、おつる中将が睨みを利かしてる中で働いてんだ。
     経歴はどうであれ、ウチで悪さしようって考えてるわけじゃ無いだろ。
     そんな経緯で入って来た割に評判いいし。
     ま、一応、こんな話もあるって伝えとこうと思ってな」

    セルバントの言葉に、ロシナンテは口を噤む。
    そういえば、にはどこか影がある。
    の縫い合わせた傷跡に、服の上から指を這わせたロシナンテに、
    セルバントは眉を上げた。

    「・・・おいおい、結構お前重症だぞ」
    「分かってる、死にかけてたんだ」
    「そっちじゃねぇよ、軍医の方だよ」

    ロシナンテは頭を掻いた。

    「それも、分かってるよ」

    分かっている。
    その人柄をろくに知りもしないのに、どういうわけか気になって仕方ないのだ。
    そして、知りたいと思っている。
    もっと話してみたい、違う顔が見てみたい。
    どんな顔で笑って、どんな風に怒るのか見てみたい。
    今まで、あまり感じたことの無い感情だった。



    その後、とは顔をあわせば話すようになった。
    ロシナンテがなにかと理由をつけてと関わろうとすると、
    持ち前のドジッ子ぶりを発揮してしまうのが吉と出てるのか凶とでてるのか、
    ロシナンテには分からない。
    情けないところばかり見せている気がして落ち込む。
    しかし、はロシナンテのドジを無視出来ないようだった。

    「ロシナンテ少佐、あなた本当にドジなんですねぇ」
    「め、面目ない」

    自分の持っていた昼食の乗った盆を、
    何かにつまづいて思い切りひっくり返したロシナンテを見て
    は呆れたようにため息を吐いた。

    買い直さなくては、とポケットを探る。
    が、財布が見当たらない。
    どうやら財布まで落としていたらしい。

    今日はつくづくついていない。ロシナンテががっくりと肩を落としていると、
    はすこし逡巡するも、自身の弁当をロシナンテに寄越した。

    「私は持ち合わせがありますから、どうぞ」
    「・・・いいのか?」

    思わず伺うように見る。
    は静かに頷いた。

    ロシナンテは差し出された弁当を見て、目を丸くする。

    「随分手がこんでいるけれど、これ、自分で作ったのか!?」
    「ええ、まぁ。一人なので」

    はロシナンテの賞賛にも冷静に返した。

    「・・・おれには無理だな」
    「へぇ?ドジを踏むからですか?」
    「うっ・・・そうなんだよ。砂糖と塩を間違えたりするんだ」
    「本当に?」

    と顔をあわせる度に声をかけていると、
    意外にもの中には皮肉屋な一面や、
    ちょっと世間ズレしてる部分があることに気づく。

    は目を伏せた。

    「・・・傷はその後いかがです?」
    「ああ、もうすぐ抜糸だ。経過も良い。
     綺麗に縫ってもらえたなって、担当医からは言われたよ」
    「そう。それは良かった」

    は淡々としている。
    確かにセルバントの言うとおり、は思慮深く、
    どこかもの憂い気で声をあげて笑うことは少なかった。
    疲れているのだろうか。
    よくよくの顔を見ると隈が浮かんでいる。

    「眠れてないのか?」
    「え?」
    「いや、隈ができてる」

    気がつけば無遠慮にの目尻に手を伸ばしていた。
    キョトンとしたの肩が微かに震えたのを見て、我に返る。

    「ご、ごめん!わざとじゃないんだけど!」

    ロシナンテは今や真っ赤だった。
    あわあわと手を振り、しどろもどろになっている。
    は慌てるロシナンテを見上げると、少し間を置いて笑い出した。

    「そんなに慌てなくても、怒ってないです」
    「そ、そうか!?良かった!」
    「でも、女性の隈を指摘するのは感心出来かねますね、気をつけた方が良いですよ」
    「うっ、悪い・・・」

    意気消沈したロシナンテに、は首を傾げる。

    「ロシナンテ少佐は、将校なのですから、もっと偉そうになさっても良いのに」
    「・・・そういうもんか?」
    「もっと、こう、厳めしい顔をして、
     腕を組んで『上官命令である!』とか言ってみたり・・・、
     ロシナンテ少佐、言ってみてください」
    「え!?」

    キリッ、とした顔をして、彼女の思う将校らしい態度を実演までしてみせた
    ロシナンテはおろおろと視線をさまよわせた。
    それを見て、はクスクス笑っている。

    「冗談です。隈を指摘されたので、・・・仕返しです」

    初めて見る、悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったに、
    ロシナンテは息を飲み、それから緩やかに目を細めた。

    知りたいと思ったことを知れば、もしかしたら満足出来るのかも、と思っていたのだ。
    だが、と会話する度、欲深くなって行くような気さえする。
    もっとを知りたくなっている。
    あるいは、自分のことを気にかけて欲しいと願ってしまった。

    それは今までに無い感情だった。
    誰にも知られたくない、と、必死で隠していたことの多い人生の中で、
    なぜ、にこんな感情を覚えるのか、ロシナンテは自問するも、答えは出ない。

    ただ一つ、言えることがあるとするなら、
    そのときもうすでに後戻りは出来なかったし、
    自分の心臓に嘘をつけるほど、ロシナンテは器用ではなかったのだ。