monster


    最近、鏡を見る度に、
    は母の”心”を思い出す。

    、弱いお母さんで、ごめんね。
     あなたを、守るどころか、こんな仕打ちを・・・』

    檻の中に閉じ込められていても、実験動物のように扱われていても、
    美しく、聡明で、穏やかだった母カルミア。

    やがて尋常ならざる投薬と暴行を受け、理性を無くしたカルミアが、
    絶望した父を殺して取り戻したのは僅かばかりの正気と、目映いばかりの美貌だった。
    しかし、それでも、に生きろと言いながら、母自身は生きる希望を失っていた。
    枯れ果てて醜く変貌した死に顔が、の目に焼き付いて離れない。

    おぞましい口づけを通して伝わってきた心が
    に告げた言葉を、今でも覚えている。

    『何も教えてあげられなかった。
     言葉で海や、森や、月について教えても、あなたはそれを実際に見ていない。
     あなたはまだ何も知らない・・・”生きて”。
     。あなたは生きて、世界を知るの。
     風を肌で感じ、海の匂いを嗅いで、色鮮やかな世界をその目で見るの。
     世界がどれほど美しいのか、あなたは生きて、感じるの。
     あなただけは・・・』

    母の最期を思い出し、
    は嘆息する。

    は母の望み通り生きながらえてはいるものの、
    未だにこの目に映る世界を、美しいとは思えない。

    鏡を前に、自分の顔を見つめる。
    灰色の瞳、月のような金色の髪。目鼻立ち。
    時間を重ねる度に、カルミアにだんだんと似てくる顔立ちは、年齢に不相応に大人びている。

    はこの目がいけないのだ、と鏡に爪を立てた。
    実験施設を出て、諜報機関へと身を寄せ、最後に、軍医になっても、周囲の環境は大して変わらない。
    周りの人間はが化け物であることを知らない。
    また秘密を抱えたまま、惨めに誰かの命をひっそりと啜る生活が続くのだ。
    それも、永遠に。

    は、”魔眼”という人知を超えた超能力を有する一族の末裔であり、
    生きて行くために他人の生気を吸い取らなくては行けない夢魔と呼ばれる化け物だ。
    生気を吸い尽くされた人間は死に、その過程において尋常ならざる快楽と疲労を相手に与える。

    は加減を心得ていたが、それでも他人の命を死に至らしめる毒をもっているのだ。
    人間社会にとけ込む程度の、当たり障りのない社交性は有しているが、
    誰かと特別親しくなることはできなかった。

    もしも夢魔であることがバレたら、はまた、
    実験施設に入れられるか、殺されるだろう。
    悲観ではなく、それが現実だとは知っている。

    だから注意深く振る舞って来た。
    特別親しい人間を作らず、しかし周囲にとけ込まないわけではない、そんな人間として。

    幸い軍医という職業は戦場を闊歩することができる、
    気絶した海賊から僅かに生命力を奪うこともできる。
    このまま、ひっそりと生きることが出来れば良いと思っていた。

    それなのに最近では、一人の海兵がに声をかけてくるようになった。
    ロシナンテだ。

    ロシナンテは、へ向ける好意を隠しもしない。
    もしくは隠しきれていないのだ。
    きっかけは分かっている。
    ロシナンテの深い傷を、が縫い合わせたのがことの発端なのだろう。

    だが、ロシナンテがに好意を寄せるきっかけとなった手術も、
    にとってはその日こなした仕事の一つであって、
    ロシナンテに特別な好意を向けた訳では無い。

    やり過ごすことは簡単だと思った。
    心を開かなければ良い。当たり障りの無い返事をして、
    当たり障りのない、関係を築くことができればいいのだ。

    しかし、ロシナンテはわざわざに礼を言って来た。
    に、ありがとうと言ったのだ。
    のおかげで、死なずに済んだと。
    はにかむように微笑んで。

    それがに取ってどんな意味を持つのか、
    ロシナンテは分かっていなかったに違いない。
    他人の命を啜り取って生きている、惨めな化け物が受けるには過ぎた賞賛だった。

    だからだろうか、その時から、はロシナンテを無碍に出来ないでいる。

    冷たく突き放そうとしたこともあったのだ。
    困らせたり、揶揄えば、きっと離れて行くだろうと思った。

    だから将校であるロシナンテに、ドジを指摘してみたり、
    将校らしくないと突っかかってみたりしたのだ。
    それなのに、ロシナンテときたら言葉に詰まってたじたじになっているだけで、
    を怒りもしなかった。
    それどころか、生意気にも「仕返しだ」などと言うに、
    優しく目を細めてみせたのだ。

    は困っていた。
    ロシナンテは、どうしようもないお人好しだった。
    どうしても、には彼を無視することが出来なかった。



    が図書館からほど近い食堂で本を幾つか見繕いながら読んでいると、
    の視界の端で、長い腕をぶんぶんと振り回す男が見えた。

    ・・・一応海軍将校なのだから落ち着けばいいのに、と思いながら
    が挨拶すると男は満面の笑みを浮かべた。

    軍医!いつも思ってたんだが、何の本読んでいるんだ?」
    「今はDr.ベガバンクの発見した血統因子についての論文です。軽い読み物ですよ」

    ロシナンテに、はつい、淡々とした口調で返してしまう。
    出来るなら、親しい相手は作るべきではないと分かっているのに、
    はロシナンテを、何故だか無視出来ないでいるのだ。
    はそれを、少々腹立たしく思っている。

    「・・・背表紙の幅5センチくらいあるけどそれ軽いのか?」
    「あっ」

    の手からひょい、と本を持ち上げたロシナンテは
    「うお、結構重い!」と言って内容を流し読みする。
    むっとしているに気づいていないみたいだった。

    「ぜんぜんわかんねェ」
    「それは、そうでしょう。論文ですもの。ある程度の前提知識が必要ですから。
     ・・・返して頂けますか?」
    「おう。・・・あっ!」

    ロシナンテが本を返そうとしたとき何につまづいたのか、ロシナンテは転んだ。
    それに巻き込まれ、は椅子から転げ落ち、床に背中を打ち付ける。
    本の崩れる音がして「いてっ!」という声が聞こえたから、
    が机の上に詰んでいた他の本も倒れてロシナンテにぶつかったのだろう。

    「だ、大丈夫か?」
    「!?」

    おそるおそる目を開くと、ロシナンテの顔が近い。はぎょっとする。
    辺りに散らばる本を見るに、庇ってくれたのだろう。
    だがこの状況の発端はロシナンテにある。

    「・・・すみませんが、退いて頂けますか。起き上がれません」
    「え!?あっ!?悪いっ!?わざとじゃないんだけど!」

    が抗議した途端に、を押し倒しているような、自身の体勢に気がついたらしい。
    瞬間湯沸かし器のように顔を赤らめて、
    ロシナンテは急いで半身を持ち上げると机に頭を強かにぶつけてみせた。

    「あ痛ッ!」

    絵に描いたようなドジを踏むロシナンテを尻目に、は起き上がった。
    後頭部を抑えて涙目で悶絶するロシナンテを見ていると
    なんだかつんけんしている自分が嫌な人間みたいだと思った。
    は思わず小さく笑う。

    「フフフ、困った人ですね」
    「あ・・・」

    ロシナンテはを見てぽかんと口を開けた。
    は首を傾げる。

    「どうかしましたか、ロシナンテ少佐?」
    「な、なんでもない」

    子供のようにゆるゆると首を振ったロシナンテに
    は不思議に思いながらも立ち上がり、周囲の惨状を目撃した。
    散らばった本。メモ書き。ひっくり返ったイスとコーヒー・・・。
    控えめに言って惨事だ。

    「・・・少佐、片付けるの、手伝ってください」
    「・・・ごめん」

    しゅん、と頭を垂れたロシナンテに、はまったく、と言いながら、
    自身のその表情が常よりも柔らかいことに気づいては居なかった。



    軍医、前から気になってたんだけど、
     治療の最中、話しかけたりするのって、癖なのか?」

    頭をぶつけたロシナンテの処置をしていると、そう言われ、は目を瞬く。
    ロシナンテは照れくさそうに頬をかいた。

    「今、早く治れって、言ってたぞ」
    「・・・そう、ですね。癖みたいなものです。
     あの、なんとなくそのほうが、早く治る気がして」
    「そうか」

    それはの癖だった。恥ずかしくなって俯く。
    ロシナンテは優しく言った。

    「それ、良いと思う。
     前もおれに、生きてくれって、言ってただろう?
     すごく励まされたから」
    「・・・それは、そう言って頂ければなによりです」

    にぱ、と邪気の無い笑みをロシナンテは浮かべている。
    だが、照れを隠しきれないの顔を見ると、少し目を伏せた。

    「なぁ、軍医はうちの次の任務に同行するって聞いたけど、
     次は海賊の支配する島の奪取が任務だ。どうしたって白兵戦になるだろう。
     志願したって聞いてるが、怖くはないのか?」

    ロシナンテの問いかけに、は言葉を詰まらせた。
    にとって、白兵戦の戦場は”食事”の機会だ。
    だが、そんなことは正直に言えるようなことじゃない。
    は笑顔で嘘をつく。

    「ええ、仕事ですもの」
    「・・・危ない戦場にばかり顔を出すって、噂になってる」

    ロシナンテの声色は硬い。
    の手首をつかみ、その目を覗き込んでいる。

    「心配されるんじゃないか、その、親御さんとか」
    「両親はいません。親戚も。
     ・・・心配してくれるような人は誰も」

    は間髪入れずに返していた。
    ロシナンテは、はっとした表情でを見つめている。
    気まずくなっては目を逸らし、取り繕うように言う。

    「そう、珍しい話でも、ないでしょう?
     こんなご時世ですもの」
    「辛いことを、思い出させたか?」

    ロシナンテの言葉には首を振る。

    「いえ、全然。
     お気になさらず、ロシナンテ少佐」

    ロシナンテは気遣わしそうに眉を顰める。

    「・・・おれが心配するよ」
    「・・・え?」
    「心配なんだ。ここのところ、顔色も良くないし」

    はそのロシナンテの眼差しに、奇妙な感覚を覚えていた。
    思わず口元を抑える。
    喉が乾くのに似ている気がした。

    それが何を意味するかわかって、はさっと顔色を変えた。
    ロシナンテは怪訝そうに首を傾げる。

    軍医?」
    「・・・大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。
     ありがとう、ございます」

    こわばった顔のは、
    昨晩本を読んで夜更かししてしまったのだとロシナンテに言い訳し、
    早く眠らなくては、と処置も終えると、医務室から逃げるように自室へと戻った。



    後ろ手にドアノブを閉めると、はズルズルと扉伝いにしゃがみこんだ。
    膝を抱え、しばらくそうしていたかと思うと、意を決したかのように鏡台へと向かう。
    思った通りの顔がそこに浮かんでいる。

    「・・・化け物め」

    はその眉間に皺を寄せた。
    鏡に映る灰色の瞳が、青白い光を帯びている。
    はその顔を手のひらで覆った。奥歯を噛み締める。

    はロシナンテの心配の眼差しを、心の底から嬉しいと、
    そう思うと同時に“美味しそう“だと思ったのだ。
    その命を口にして、味わいたかった。
    ・・・どんな味がするか知りたかった。

    今まではどんなに“空腹“でもそんな風に感じたことなどなかったのに。
    は言えなかった言葉を、言うべきだった言葉を口にした。

    「あなたと居るとおかしくなる。近づかないで。
     私には心配される価値なんかない、・・・ロシナンテ少佐」

    呟いた声には悲しみと苛立ち、そして何故か甘やかな響きがある。

    のために、が生きる手段として、
    魔眼を母が目覚めさせたのだと理解している。
    生きて欲しいと願った故だと。

    それでもは母を許しきれないで居る。

    できるなら、普通の女の人になりたかった。
    そうすればもっと誰かの心に、
    物怖じせずに寄り添うことができたのではないかと、そう思うのだ。