Can't take my eyes off you


    喉が渇いている。
    は当ても無く道を駆ける。

    そこは戦場だった。
    海賊が根城にしている島。
    海軍がその支配を終わらせるために、乗り込んだのは早朝のことだったが、
    今はもう夕方に近い。
    は仕事に追われていた。
    息を吐く暇もない。島中にけが人が転がっている。

    は夢魔の空腹を堪えながら
    なんとか少しでも命を分けてもらえそうな人間を仕事の合間に捜していた。
    出来れば気絶した海賊などが望ましい。
    民間人や重傷の人間、身内である海兵から吸い取るのは不味い。

    それもこれも、やたらとのことを気にかけるロシナンテのせいだ。
    前回はロシナンテが無茶をして、”食事”をとるどころではなかった。
    今日で最後の食事から2週間が経っている。
    動物の生き血でしのいで来たが限界だ。

    今日はなんとか撒けているようだし、ロシナンテも無茶をしてはいないようだが、
    ロシナンテは軍医であるが巻き込まれて怪我をしないようにと、
    なにかと気遣っているようだった。

    にとってはありがた迷惑もいいところだが、
    ロシナンテが善意故に動いているのは知っているため突き放せない。

    は思考が荒むのを感じていた。
    戦場を走り周り、怪我をした海兵には手当を施し、民間人を安全な場所へと誘導し、
    その合間に空腹を満たすための”食べもの”を探す。
    は今の状況が滑稽なものに思えてきていた。

    母親の言いつけを、いつまで馬鹿正直に守っているのだろう。

    そう思ったのだ。
    度重なる人体実験で頭がおかしくなった母は、に生きろと言った。
    生きて世界を見ろと言った。
    美しかった母の残した正気の言葉がの脳裏に焼き付いている。
    思えば、魔眼を母は使っていたのかもしれない。

    だが・・・他人の命を啜りとる化け物に、生きている意味なんてあるのだろうか。

    実験施設でも、諜報機関の訓練施設でも、海軍に放り込まれても、見るのは違う様相の地獄だ。

    割れた窓に写ったの目は淀んでいる。

    いっそのこと、もう終わりにしてもいいのかもしれない。
    が死の誘惑に駆られたときだった。

    軍医!」

    誰かがの手を引いた。
    その手の導くままにの身体が後ろに引っ張られる。

    「一人で行動するな!危ないだろう!」
    「・・・ロシナンテ少佐」

    ぼんやりとその顔を見上げる。
    ちょっと情けなくも見える眉を下げたような顔をしている。頬には傷がついていた。
    コートもスーツもボロボロだった。

    「なぜ、ここに?」
    「なぜって、制圧が終わったからだよ。帰還命令が出てたろう?
     まさかでんでん虫も持たずに一人でいたのか?!」

    の肩をつかんで不用心だ!と叱りつけるロシナンテに、は唇を噛んだ。

    怒った顔を見るのは初めてだった。

    どうして自身をけなされても怒らないのに、他人を心配して怒るのだろう。
    ・・・なんでこの人はこんなにも優しい。
    その優しさが私を苛立たせ、苦しめるのに、なぜこの人を嫌いになれず、突き放せないのか。
    それになによりも。

    は唾を飲む。
    の顔を覗き込むロシナンテは本気でを心配している。
    空腹感がじわじわとの理性を削る。限界だった。

    「聞いてるのか?」
    「!」

    もうだめだ。
    に目線を合わせて精一杯”怒っています”という顔を作っている、
    赤い瞳に呆然とする自身の姿が映ったとたんに、はカッと頭の中が熱くなるのを感じていた。

    ロシナンテは魅力的だ。
    話をしてすぐに分かった。
    優しく、素直で、感情豊かで、正義感が強く、
    こんなに海兵らしい人は見たことが無かった。
    それなのに、ドジで、不器用で、頑固なのだ。
    こんなに将校らしくない人も、見たことが無かった。
    三白眼で目つきはとがっているのに、笑うとくしゃっと目尻に皺が寄る。
    ・・・とびきり美味しそうだった。

    は堪え難い喉の渇きを思い出した。
    時折感じていた心臓が、ぎゅっと締まるような、そんな感触も。
    その感覚を鎮める方法はたった一つだと、は知っていた。

    頬に手を伸ばす。
    ロシナンテは軽く目を見開いた。
    距離を取ろうとしたらしいが、それはできなかったのだろう。
    その目に戸惑いと驚きが見える。
    の目は爛々と輝いていた。

    軍医?・・・?!」

    頬を抑えて固定する。
    薄い唇に、齧り付くようにキスをした。
    その目蓋が驚愕に見開かれるのを、は当然のこととして受け止めていた。
    くぐもった声が響く。
    は想像よりもずっと、素晴らしい口づけに夢中になっていた。
    空腹だったからというのもあったが、果たしてそれだけだったのか、には判断がつかない。

    どれほど時間がたったのか定かではない。
    それでもは全身に力が充分に行き渡るのを感じていた。
    それでもその口づけをやめなかったのは、殆ど頭に理性が残っておらず、
    多幸感と快楽に溺れつつあったからだ。

    だからそのとき、ロシナンテがをきつく抱き寄せた痛みによって、
    微かな理性が戻ったのは、にとっては幸いだった。

    そしてそれは、に冷や水を浴びせられたような心地をもたらした。

    正気に戻ったが、ロシナンテの顔から読み取れたのは
    恍惚と恐怖、喜びと疑問、そして許容だった。

    は知っている。夢魔の口づけが何をもたらすのか。
    恐るべき快楽と、恐怖。それは死の実感に他ならない。
    はとたんに恐ろしくなった。

    今、死なせてしまうところだった。
    それなのに、ロシナンテは確かに”殺されるのかも”と思ったに違いないのに。
    なぜこの男は私を許容した?

    はロシナンテを突き飛ばした。
    尻餅をついたロシナンテが呆然とを見上げている。
    息が荒いし、心無しか顔色も悪い。

    殺しかけたのだ。私は、彼を。

    はロシナンテを見下ろして、歯を食いしばった。
    自分自身をこんなにも嫌いだと思った日はないと思った。
    目の奥が熱を帯びはじめている。

    「・・・?泣いてるのか?」
    「・・・どうして、あなたはそうなの!?」

    はへたり込む。
    こんな時でもを心配しているロシナンテに、
    は敬語も忘れて怒鳴りつけた。

    「死にかけたのよ!私に、殺されかけたの!分かってるはずでしょう!?
     私は・・・!こんなことになるなら、ずっと前に死んでしまえば良かった・・・」
    「な、何てこというんだ?!」

    悲痛に眉を顰めたが俯いて泣いている。
    ロシナンテがの腕を掴むと、がロシナンテを睨み上げた。
    痛々しい泣き顔だった。は、もうどうなってもいい、と自暴自棄に告げる。

    「こうして、誰かの生命力を奪わないと生きられないの、私は、そういう、化け物なの。
     ・・・あなたの命を奪うつもりなんてなかったのに、そうなるとこだった!」

    ロシナンテの表情にどこか納得したような色が浮かぶ、
    それでもロシナンテから出た言葉は気遣う様なものだった。

    「落ち着け、頼むから、泣かないでくれ」

    おろおろとに近づいたロシナンテに力なく答える。

    「無理よ。私は取り返しのつかないことをしてしまった」
    「おれはお前を傷つけるようなことは何もしない。何も怖く無いんだ、
    「違う。私が傷つくんじゃない。私があなたを傷つけてしまう」

    が自身の前髪を掴む。みっともない泣き方をしていた。
    ロシナンテが落ち着かせるようにの背を撫でた。

    「なぁ、、お前どれだけ我慢した?
     ごめんな、お前がこんなに泣くだなんて・・・。
     辛い思いをさせてすまなかった」
    「どうして私の心配をするの。あなたを危うく殺す所だったのに」

    ようやく涙がとまったに安堵した様子で、ロシナンテはおどけてみせた。
    その顔に疲労の色が見え隠れして、はますます惨めな気持ちになる。

    「おれは死なない。お前に殺されたりしない。
     現にほら、生きてるだろ!元気だ、おれは!」
    「運が良かっただけよ。どうしてそれがわからないの」

    言葉から力が失われていくのが分かる。
    ロシナンテはの頬を撫でた。まるで慈しむような仕草だった。

    、おれで良ければその、生命力をあげるよ。
     だからそんなに怯えることなんかないんだ」
    「どうしてそんなことを言えるの」
    「お前は人間だ。化け物なんて言うな。化け物ならなんでおれの傷を治せる?」

    ロシナンテは安心させるように、微笑んでみせた。
    幼い子供のように、なぜ、どうしてを繰り返すは呆然とその笑みを見つめる。

    「どうして、」
    「人間を救えるのは、人間だけだ。きっとそうなんだ。
     、お前がおれの傷を縫い合わせてくれたから、おれはこうして生きていられる」

    くしゃ、とロシナンテの顔が悲しみに歪む。

    「だから、頼むから、死にたいなんて言うなよ・・・!」

    ロシナンテはの背中をおっかなびっくり撫でた。
    不器用な手つきには先ほどとは違う種類の涙が溢れてきたのを感じている。
    きっとそのときだった。
    心臓と頬が燃えるような熱を持っていることに気づいたのは。

    それはずっと前に始まっていたことだったのかもしれない。
    は唐突に直感していた。
    唇からは、うわ言のような言葉が零れる。

    「ロシナンテさん、私、人間で、良いの・・・?
     誰かから命を盗みとらなきゃいけないような、そんな、生き方しか、出来ないのに」 
    「だったら何で医者なんかやってるんだ!」

    ロシナンテは半ば叱りつけるように言った。

    「誰かを助けたいからじゃないのか?
     そうじゃなかったら、患者に治れとか、生きてとか言うことが、癖になるわけがないんだ!
     この手が、おれを治したんだ!不安なら、何度だって言ってやる!」

    ロシナンテがの手を包み込んだ。
    大きな手だった。の手なんて、片手で包める位の。

    「お前は化け物なんかじゃない!」

    はもう言葉を口にすることが出来なかった。
    嗚咽を噛み殺すので精一杯だ。
    それですら、ロシナンテがなだめるように背中を撫でるのだから、
    難しいことだった。
    包まれた手の平に、額を当てて、祈るように涙した。

    ずっと隠していたことを打ち明けた安堵と、
    許され、欲しかった言葉をかけてくれた喜びが、の涙に溶けている。
    再び泣き出してしまったをみて、ロシナンテが途方に暮れたような顔をしている。

    、涙を拭いてくれ・・・お前が泣いてるのを見るのは、辛いんだ」
    「わかり、ました。困らせて、ごめんなさい。迷惑、でしたね」

    はハンカチで涙を拭った。きっと酷い顔をしているだろう。
    声もみっともなく上擦っている。
    俯いたに、ロシナンテは言い方が悪かったか?と前置きし、頭を掻いて言った。

    「迷惑だなんて思ってない。
     ただ、好きな人が傷ついて泣いてるとこなんて、誰も見たくないだろ」
    「・・・え?」
    「ん・・・?あ!?」

    が唖然とロシナンテを見上げると、ロシナンテは不思議そうに首を傾げる。
    が、暫くして自分が何を言ったのか気がついたのだろう。
    ロシナンテは顔を青くしたり赤くしたりしながら、あわあわと手を振る。

    「ドジった!?いや、違う!違くは無いけど!本心なんだが!
     今言うつもりじゃなかったと言うか!?
     だって今言ったら弱みに付け込んだりとかそういう感じになるだろ!?
     ・・・何を言ってんだおれは!」
    「お、おちついてください!」

    半ばパニックになっているらしいロシナンテに、は言う。
    小さく息を吐いて、ロシナンテの瞳を覗き込んだ。
    その、赤い瞳が少しの怯えのようなものを含んでいるのが分かる。
    拒絶されるのが怖いのだ。
    ・・・にはもう、そんなことをするつもりは全く無いのに。

    「あの、・・・ロシナンテさんは、私のことが好きなんですか?」
    「う・・・!」

    顔色をころころと変えていたロシナンテの顔が一気に首まで真っ赤になった。
    目線をしばらく彷徨わせたあと、意を決したようにの目を見て、頷く。

    「あァ、好きだ」

    が胸を抑える。心臓が馬鹿みたいにうるさい。
    少し眉を顰めて、呟いた。

    「・・・なら、私の弱みにつけ込めばいいじゃないですか」
    「え!?嫌だ、そんなのは!卑怯だろ!?」
    「だから、卑怯でも、構わないって言ってるんです!」

    は驚いた顔をするロシナンテの手を握り返した。

    「は・・・?」
    「ずっと、親しい人を作っちゃいけないって思って来たのに、
     私、あなただけは拒めなかった。
     ・・・好きなんです」

    きっと受け入れてくれると知っているのに、緊張で、喉がカラカラに乾いていた。

    「ロシナンテさんが好きなの」

    その時の、ロシナンテの顔を、は多分忘れないだろうと思った。
    驚愕と、喜びと、何か別のものが複雑に混ざりあって、
    何故だかの方が泣きそうになるような顔をしていた。
    多分それが、の一番好きな表情になるんだろうな、という予感がしている。

    は笑った。
    目を細めたせいで、涙がボロボロと零れる。
    はそのとき、生まれて初めて、心の底から微笑んだような気がしていた。