沈黙する娘


ロシナンテは煙草に火をつける。
与えられたねぐらのサイドテーブルの上にはいくらかのベリー硬貨と灰皿、メモ帳に鉛筆。
それから滅多に読まない小説が乱雑に置かれていた。
本の虫の妹との会話の糸口だが、あまりページは進んでいない。

ロシナンテはに小説を贈った時の事を思い出していた。
退屈に飽き飽きしていて、娯楽に餓えている
大変に喜んで、ロシナンテの頬にキスをした。

いくつになっても、は無邪気で、純粋で、可愛らしい。
6歳の子供の頃から、その性質は変わっていないように見える。

だが。
ロシナンテは唇を引き結ぶ。
は、おそらくドフラミンゴとは違う意味で”異常”なのだ。



かつて、10歳の少年だったドフラミンゴが降り掛かる悪意と苦痛に耐えきれず、
その心を憎悪に燃やし、怨嗟を吹き上げ父を殺した時、
ロシナンテは逃げようとした。・・・を連れて。

は燃え盛る火のなかで、窓から吊るされる事は無かった。
ねぐらにしていた小屋のなかで、は死んだように眠っていた。
それに心底から安堵を覚えていたのはロシナンテではなく、ドフラミンゴだったと思う。
ドフラミンゴはに甘い。同じ男であるロシナンテより遥かに。

だから、その時を連れて逃げようとしたとき、
父を殺したドフラミンゴに対する小さな復讐を意図しなかったか?と聞かれれば、
ロシナンテは答えに詰まるだろう。確かにそう言う感情があった。

しかしそれは、に見抜かれていた。
はロシナンテの手を振り払ったのだ。
その日交わされた言葉を、ロシナンテは今でも覚えている。

「私はドフィ兄さまを置いてけない」
「なんで?!兄上は、父上を」

ロシナンテの慟哭に、は首を振った。
差し出したロシナンテの手を、はとらなかった。

「私まで居なくなったら、ドフィ兄さまは、きっと、おかしくなる」

なら、今はおかしくないとでも言うのだろうか。
父を殺したドフラミンゴは異常ではないと、言うのだろうか。

ドフラミンゴを糾弾するロシナンテに、は涙を流しながら、笑った。
思い返せば、とても6歳の少女が浮かべるような笑みではなかった。

「ロシー兄さま、私、どうしても、ドフィ兄さまのそばに居ないと、
 そうでなければ、」

が呟いた言葉をロシナンテは聞き取れなかった。
だが、顔を上げたは、もう決めていたのだろう。

「私が上手く言うから、ロシー兄さま。逃げて。
 お願い、・・・できれば、ドフィ兄さまを、助けてあげて」

そう言ったの言葉の意味をきちんと理解してやれたのは、
ロシナンテが海兵となってしばらくしてからの事だった。

冷静に考えれば、あの時すでに、逃亡生活は限界だった。

ドフラミンゴが覇王色の覇気の持ち主でなければ、
あの日鉛玉で逃亡生活にピリオドを打たなければ、
おそらくドフラミンゴも、ロシナンテも、も全員死んでいた。

あの時はその選択肢しか残されていなかった。

は分かっていたのだ。
ドフラミンゴが少ない選択肢の中でしか、生きる道を選べなかった事を。

「・・・でも、今は違うだろう、

ドフラミンゴに懸賞金がかかったその日、ロシナンテは悟った。
ドフラミンゴは引き金を引いた日から暴走を続けている。
そして、にはそれを止められなかったのだ。

でも。

「ロシー?ロシナンテ兄さまなの?」

ドンキホーテへの潜入任務に入ったその日、
宝物庫で、大切に隠されていた妹と再会した時、
は確かにドフラミンゴのブレーキとなっていることに気がついた。

涙を浮かべ、再会を喜ぶ
思わず唇が「ははうえ」と動いていた。まるで瓜二つだった。

の、母親によく似た美しい顔が、ドフラミンゴと言葉を交わすたび、
ドフラミンゴから滲み出ていた破壊衝動がなりを潜める。

 その笑みの柔らかさときたらどうだ、まるで、普通の。

ロシナンテは少なからず衝撃を受けた。
あの”化け物”のようだった兄が、
海賊団の面々と居る時は冷徹な長の顔を見せるドフラミンゴが、
と居るときだけは、優しい兄の顔をするのだ。

その後、何度かと二人きりで話す機会が与えられた。
は、これまでのことを話して聞かせた。

それはドフラミンゴの嘘と偽りで塗り固めた話だった。

父を殺したのは北の海に居たごろつきの一人で、
そのごろつきを捕らえたトレーボルらと貿易会社を起こし、
商船で北の海を中心に取引をしている。ゆくゆくは世界中を巡るのだと。
の周囲を囲む名画、彫刻、希少本は、貿易の正当な対価だそうだ。

もっともらしい嘘だった。そうであって欲しいと願うほどの。
この聡い妹は、嘘を嘘と知りながら沈黙している。
それ以外に選べる選択肢が無いのだろう。

ロシナンテが喋れない振りをして、頷いたり、筆談での会話を続けていると、
は少し悲しそうな顔をする。

「ねえ、ロシー。
 私に出来る事は、あまり多くはなかったわ」
『どういう意味?』

「ドフィは、私と居る間は、何も壊さない。冗談も言うし、優しいわ、とても。
 でも、24時間ずっと側にいることなんて出来ると思う?」

はロシナンテの道化の化粧を指で撫でる。

「ロシー。
 私、本当は全て分かっているわ。
 私、本当は全て知っているの」

その目は知性と、悔恨と、涙に潤み、光っている。

その時悟った。

道化を演じるのは、も同じだ。

それでも、ロシナンテは全てを打ち明ける事は出来なかった。
は沈黙を選んでいる。
何もかもを打ち明けるには、のすべてを信用するには、
離れていた時間が邪魔をした。

ロシナンテは白煙を吐いた。
血を分けた兄妹。彼らを信用出来ないでいる。
化け物と内心で罵るドフラミンゴと同じく、ロシナンテはに嘘を吐く。
あの聡く、優しい妹は沈黙を守り続けるのだろう。

それでもロシナンテは止めない。止められない。
兄の暴走を止める。その日までは。



定期検診の最中、は首を傾げる。
ローは控えめに言って不機嫌だった。

「荒れているわね、ロー先生。それに・・・酷い怪我」
「お前の兄貴にやられたんだよ」

コラソンにかなり激しく殴られ蹴られたローはに短い舌打ちをした。
は困ったように眉を顰め、首を傾げる。

「それは、どっちの?」
「コラソンだ。”人見知り”の激しい方」

当てつけのように言うと、は息を吐いた。

「ロシー兄さんは、・・・愛情表現を時々間違う人だから」
「はァ!?愛情!?」

気色悪い、とローは腕を擦った。はそれを見て苦笑する。

「多分、ロー先生のこと、昔のドフィみたいに思ってるのね。
 少し似てるもの」

似ているからって暴力を振るとはどういう事だろうか。
この兄妹の関係性は捩じれていてローには良くわからない。

ドフラミンゴは弟と妹には死ぬ程甘いが、妹には自由を与えない。
コラソンは兄への態度は普通。妹の前では時々カッコつけたようなそぶりを見せる。
は兄達が好きなのだろう。だが時折その口に不満を含ませた。

仲がいいのか、悪いのか曖昧な兄妹だ。

ローは怪訝そうに眉を顰める。は曖昧な笑みを浮かべている。
こう言う顔をする時は、は何も話さないと言う事を、
なんとなくローは理解しはじめていた。

「ねえ、ロー先生。隈が深いわ。
 余り眠れていないの?よく眠らないと大きくなれないわよ」
「余計なお世話だ」

ローの目元を人差し指で突くその手を払う。

「子守り歌でも歌ってあげましょうか?」
「いらねェよ。なんでそうなるんだ」
「だって退屈なんだもの」
「おれを!退屈!しのぎに!するな!」

言葉を区切って言い募ってもはどこ吹く風だ。
終いには勝手に歌い出した。

高く澄んだ声がローの耳を打った。
思わず目を見張った。は優れた歌い手だった。

昔、母親が同じ歌をローに歌った。
たった数分の子守唄に、ローは歯を食いしばる。
の声はどこまでも優しい。
ローは帽子を目深に被る。

「ロー先生?どうしたの。私そんなに下手だった?」
「・・・うるさい、ばか」

力なく罵るローを、は見つめる。

「ドフィ兄さんは」

はローから視線を外した。

「不幸に打ち勝つ強さをもった人間を好ましく思ってる。
 怒りや、絶望や、憎しみを知っている人間を。
 そのなかでもとりわけ、幸福を知っていて失った人に、手を差し伸べる。
 ・・・きっとあなたも、そういう人なのでしょうね、ロー先生」

「・・・ずいぶん上から物を言うな、
 お前、おれの何を知っている?」

ローはを睨んだ。
もうその目はドフラミンゴに”無類のクソみたいな目つき”と称されたそれに戻っている。
覚えた感傷は上手く隠していた。

しかし、そんな目で睨まれてもはベビー5のように泣いたりはしなかった。

「私に、理解して欲しいの?」

は唇の端をつり上げた。
その表情は、今までに見た事の無い類いのものだった。
良くわからない奇妙な感触を覚え、眉を顰めたローに、は目を瞑る。

「・・・私の悪い癖だわ。捨てた物を惜しむなんて」
「なんだ?」
「いいえ、何も。・・・ウフフ!
 私の小さなお医者さん。次の検診では、あなたに怪我が無いことを祈ってるわ」
「!? おい、お前の挨拶は気安いんだよ!やめろバカ!」

頬に小さく口づけられてを睨むも、
は相変わらずのクスクス笑いで誤摩化した。
ローは静かに息を吐く。

「・・・おれに怪我が無いかどうかは大体コラソンのせいなんだからな、覚えとけよ。 
 あと何度言ったらその呼び方止めるんだよ」
「ウフフ、絶対止めない」
「この野郎・・・」

忌々しいという顔をするローに、は笑う。
その顔がいつも通りなのを見て、ローは確かに、小さく安堵したのだ。



隠し扉を抜けて、ローは背中を石造りの壁に預ける。

ローはの歌を聴いて、いよいよ籠の中の鳥のようだと思った。
だが、はその立場を甘んじて受け入れているように思う。

しかしその口ぶりには自由への憧れや、現状への不満がかすめることがあった。

はドフラミンゴの支配を一身に受けている。
その病はローの診察で進行を止めているが、寛解するのには時間がかかりそうだった。

 せめて、アジトの中を散歩させる事が出来るなら、少しはの気もまぎれるだろうに。

ローはカルテを捲りながらふとよぎった考えに手を止めた。

 今、おれは何を考えた?散歩させる?ドフラミンゴが閉じ込めた奴を自由にするって?
 あのドフラミンゴの、溺愛する妹を?

冷静になった瞬間ローはぞっとしていた。
ある根拠の無い考えがふつふつと沸き上がって来たからだ。

ドフラミンゴの妹に手を出そうとした前任の医者は、もしかすると、
に唆されたのでは無いのだろうか。
あの優し気な声と眼差しに狂わされ、正常な判断力を失い、
・・・その果てにドフラミンゴに殺されたのではないのだろうかと。

ローは背筋に氷のような冷たさを覚えていた。

『私の悪い癖だわ。捨てた物を惜しむなんて』

それが何を指しているのか、ローには分からないけれど、
はやはり、普通ではないのだ。

なぜならローはに哀れみを覚えつつある。同情していた。
それは異常な事態だった。

破壊衝動と、憎しみを糧に生きている。
そんな人間が、誰かに心を動かして良いはずがないのだから。
このままでは、前任の二の舞にならずとも、近い事態になりかねない。
ローは苛立たし気に眉を顰める。

「・・・おれの邪魔をするなよ、

呟いた言葉も、重厚な石造りの壁に阻まれる。
それでもなぜか、その言葉はまで届いた気がしていた。