Persona and Love Story
は覚えている。
本から顔を上げ、窓辺を見つめる。
太陽が海に沈む、空が夜に変わっていく。
こんな日は、昔を思い出してしまう、とは軽く目を眇めた。
は、生まれ落ちた日のことを覚えている。
いかにしてドンキホーテ・と言う女が出来上がったのか、
その過程の全てを覚えている。
この目が開いて最初に見たものは、
人格者の父の、頬が喜びで薔薇色に染まった瞬間。
優しい母の、色素の薄い赤い瞳が緩やかに細められた瞬間。
幼い長兄が興奮と歓喜に声を上げ、私の小さな人差し指を握り、
さらに幼い次兄は、大きな目を見開いて、私を見つめていた。
私が生まれたのは日が落ちた時。
世界が始まるような、あるいは世界に終わりを告げるような、
美しい夕焼け時に、私は生まれた。
恐らく私の人生は、
緋色に始まり緋色に終わる。
※
は自身が”異常”だと言う事をきちんと自覚していた。
故に、兄たちや両親にも自身の本心を打ち明けた事はない、
自身が歪な人格であると分かっているからだ。
は一度見た事、聞いた事を忘れることができなかった。
つまり、超人的な記憶力の持ち主なのだ。
どんな風景も、どんな本も、どんな音楽も、
の小さな脳みそは全て鮮明に記憶していた。
そのせいか否か、の自我は恐るべきスピードで発達し、
気がついた世界の仕組みの多くに、やがては失望したのだ。
天竜人として生まれたが立ち上がった時、
同じ目線に居たのは、傷ついた奴隷達だった。
彼らの目は希望を失い沈んでいて、稀にが声をかけても鬱陶しそうに首を払うか、
無表情に見えても目の奥底で憎悪を宿しているかのどちらかだった。
彼らは天竜人と同じような姿形をしていても、別の生き物だと言われていた。
”下々民””奴隷”そんな言葉で呼ばれることに彼らも慣れきっている。
天竜人同士が交わす会話が、恐ろしく傲慢で、利己的であることにも気づいていた。
そして、にとっては耐えられないことに、
彼らは女を血をつなぐ道具と考えているようだった。
幸いにして、父、ドンキホーテ・ホーミングと
母、ドンキホーテ・ドルネシアはを真っ当に愛し、慈しんでいたが、
まだ幼いに婚約を申し込む世界貴族は一人や二人ではなかった。
その環境はの内面を複雑にした。
は優しい両親の感性と、天竜人としての冷淡さを合わせ持つようになった。
それは危うい均衡で両立している。今もだ。
家族以外はの愛する対象ではなかった。
特に、周囲の天竜人に対しては軽蔑さえも抱くようになっていった。
欲望のままに生き、奴隷の命をオモチャにし、醜悪に笑う彼らこそ、
には人では無い、奴隷に見えた。
彼らは欲望の奴隷だ。
世界政府によって痛みなく牙を抜かれ、
爪を優しく剥がされ、考える脳を萎縮させた哀れな竜の一族。
真に世界を牛耳るのは世界政府の役人どもで、
醜く肥え太らされた竜は抵抗する術を失い、
いつかはその喉を食い破られるだろう。
ごめんだと思った。
美しく整えられた檻で一生飼い殺しになるのは嫌だった。
だから、父と母が、慎ましく暮らそうと口にしたときは、
半ばほっとしていたのだ。
天竜人は自由ではない。行きたいところへ行き、見たいものを見ることは出来ない。
無邪気な兄たちと優しい両親と、平穏に暮らしていけるのなら、それがの幸福だった。
しかし、両親も、そして自身もまた、”天竜人”だった。
燃え盛る火の中で、政府から与えられた屋敷が火に舐められ崩れ落ちる様を、
逃げ惑う両親を、涙する兄達を見て、は決めたのだ。
私が彼らを守らなくてはいけない。
私が恐らく、一番冷静に動けるだろう。
の感情は優れ過ぎた記憶力のせいでやや鈍感になりつつあった。
しかし、そんなそぶりを見せれば家族が不審に思うと分かっている。
は演じ続けていた。
誰に媚びを売るのも苦にはならない。
どれだけ傷ついたとしても、家族のためなら何だってできる。
両親も兄達も愛おしくて好きだった。
公平な視点で、を見てくれるのは、家族だけだと分かっていた。
父親の役割を果たす事のなくなった父を励まし、
病弱で徐々に生気を失っていく母を必死に看病した。
優しくおっとりとしたロシナンテが徐々に口数が少なくなっていくのが嫌で、
冗談を言って笑わせた。笑ってくれるのを見るとほっとした。
兄なのだからと必死に弟、妹を守ろうと虚勢を張るドフラミンゴが、
いつ崩れ落ちてしまうのか気が気でなかった。
だから甘えた。ドフラミンゴがの手を握るとき、安堵するならそれで良かった。
苦痛の日々にも楽しい時はあった。
雨風をしのぐためのあばら屋で、隙間のあいた屋根の間から星が覗く。
眠れない、晴れた夜は兄妹3人で星を眺めた。
一つの毛布を分け合いながら、ヒソヒソと囁き合った。
それだけが現実を忘れられる時間だった。
「あの赤い光の星は”アンタレス”?」
「そう。さそり座だえ」
「さそりの心臓だわ、ロシー兄さま、どこにあるの?
ドフィ兄さまは見つけた?」
「赤く光ってるよ」
「ならすぐ見つけられる」
「天秤座なら見つけられたのに」
「ならすぐそこだ」
不思議な事に、はマリージョアへ帰りたいと思った事はなかった。
星を数えている間、は誰より幸福だった。しかし。
母が死に、もまた同じような病に倒れた。
この時の、ドフラミンゴの憔悴は筆舌にしがたいものがあった。
父は何も出来ず、ロシナンテは涙ぐむばかりだった。
守らなくてはいけなかったのに。
はそれだけが悔しかった。
ドフラミンゴは徐々に怒りと憎しみに取り憑かれ、その精神を尖らせていく。
ロシナンテは表情が乏しくなり、声を上げずに泣くようになった。
父もまた狼狽しきっていた。
無力感が植え付けられたのは、この時だったのだろう。
そのころ、ドフラミンゴはヴェルゴという少年と出会った。
は体調のいい時に彼と少しだけ話をした。
彼の挙動から、彼の背後にはたちの悪い人々がついていることがすぐに分かったが、
ドフラミンゴは新しい友人を気に入っているようで、その付き合いには口をだせなかった。
ドフラミンゴには何か、はけ口が必要だった。
そして、が病に臥せっている間に、全ては終わってしまったのだ。
ロシナンテから逃げようと言われた。ドフラミンゴが父を殺したからと。
ロシナンテの手をとることが、どうしても出来なかった。
ドフラミンゴは分かっていたのだ。頭の良い兄だった。
いつまでも逃げ続けられないと知っていた。も分かっていたことだ。
同じ様に父も知っていた。
知りながらドフラミンゴ以外の誰もが引鉄を引くことが出来なかった。
ドフラミンゴに、”引かせてしまった”のだ。
ドフラミンゴが父を軽蔑しつつあったのを知っている。
それでもは覚えている。
ドフラミンゴの頭を撫でる父と、それにはにかみ笑う兄の姿を覚えている。
最初から軽蔑していた訳では無かった。最初から疎んでいた訳ではなかった。
ドフラミンゴは”家族”を愛している。守ろうとしていた。
幾つもの要因が重なって、幾つもの要素を天秤にかけて、
引鉄を引くしかないと決めたのだ。
それが罪だと言うのなら、も同罪だ。
は兄が美しく整えた、檻の中に自ら入った。
トレーボルがドフラミンゴを利用して、成り上がろうとしている事も分かっている。
ドフラミンゴとて薄々勘づいているだろう。
けれど、彼らをドフラミンゴは必要としている。
血縁であるよりも、よほど彼らを。
そして年月が流れ、ロシナンテが戻って来た。
彼なりにドフラミンゴを救うために。
それがどれほど嬉しかったか、きっとロシナンテは知らないだろう。
しかしドフラミンゴが、ロシナンテを信じ切れずにいることも知っていた。
ファミリーに置くから”コラソン”と呼ぶことにしたと打ち明けられたが、
ドフラミンゴは懸念していた。
なにしろ、ロシナンテは一度ドフラミンゴの元から逃げ出したのだ。
それは”裏切り”だった。ドフラミンゴがロシナンテを疑わないはずがない。
だからドフラミンゴは弟をロシナンテと呼ばないのだ。
そしてその懸念は的中している。
ロシナンテが海兵なのだろうことは、推理小説の暗号を容易く解いてみせる様や、
が気まぐれに覚えたのだと言って
試したモールス信号を理解しているそぶりをみせたことから気づいても居た。
そして、ロシナンテがに漠然とした不信感を覚えているのはすぐに分かった。
当然だと理解はしていた。
10年近く離れていて、その間の事を何も知らないのだ。
はロシナンテに協力してくれるよう頼まれたら、いつだって力を貸しただろうが、
結局のところ、は沈黙を選んだ。
何もかもがままならない環境において、叶えたい願いはただ一つ。
はドフラミンゴにもう傷ついて欲しくなかった。
そのためなら堪え難い苦痛も全て我慢しようと決めた。
演じきるのだ。
無邪気で、純粋で、従順な妹、完璧な”ドンキホーテ・”を。
それは概ね成功しているように思える。
は目を伏せる。
だが、不自由を受け入れ、目を逸らし、真実に口を閉ざし、
諦め、現実から逃げ続けた報いを、はいつか受けるのだろう。
これは絶望の物語。
一人の女が病に蝕まれ、何も救えずに息絶えるまでのエピソード。
誰と苦悩を分かち合うことも無く、何も紡げない女の話。
誰も主役の女の素顔を知らず、誰にも暴かれることは無い。
笑え。煙に巻け。涙など見せるな。怒りを隠し、心から愉しむフリをしろ。
誰もお前を求めない。お前の心のありかを、誰も探さない。
その脚本を繰り返して来たはずだった。
※
「ロー先生」
少年が、の呼びかけに振り返る。
白い痣は確実に彼を蝕んでいるようで、は微笑みで憐憫を隠した。
ローは、死に至る病に冒されている。
それはのように、じわじわと体力を削るようなものではなく、
劇的に死へと突き進む病なのだろう。
しかし、荒んでいた目つきは近頃和らいだように見える。
「最近のお薬は苦くないのね」
「慣れて来ただけだろう」
ローはそう言ってカルテに何か書き付けている。
は知っている。
ローは薬の種類を変えていた。最近の薬は幾分飲みやすい。
・・・この哀れな少年は、に同情しているのだ。
自由を不当に奪われているとでも思っているのだろう。
が罪人である事も知らずに。
ローのことを、は可愛く思っていた。
ローは昔のドフラミンゴによく似ていた。
何もかもに絶望していて、そのくせ、しぶしぶを治そうと努める姿はいじらしい。
その様に昔髪を切ってくれた兄の、悔しそうな顔を思い出していた。
だからだろうか。
家族でもないのに、手を握り、頭を撫で、励ましたりしたのは。
むくれて黙り込む様子も慌てる姿も、面白かった。
つい先日はが舌を噛んだのを見て、呆れたように笑っていた。
ローの少年らしい笑みを見たのは、それが初めてだった。
不覚にも、はローに心を開きはじめてしまっている。
それがどんな意味を持つのかも知らずに。
※
ノックの音が聞こえたので、はどうぞ、と声をかけた。
ローは嫌そうな顔をしている。
ロシナンテは入室するや否やローの存在に気づき、顔をしかめていた。
『あとにしようか』
「いいえ、ロシー兄さん。そんなことする必要ないわよ。
お見舞い、ありがとう」
ロシナンテは少し乱暴にベッドの横の椅子に腰掛けた。
は困った様に笑う。
いつもはもっと丁寧に座るのだが、ローが居るからだろうか。
ロシナンテは子供嫌いを演じている。
ローはむっつりと黙り込んで、ロシナンテを睨んでいた。
ロシナンテはそれを意に介さず、に小説を渡している。
「まぁ、ありがとう!ちょうど前の話は読み終わってしまって・・・。
『天の光はすべて星』?SFなのね?」
『たまには、すいり小説いがいもいいだろ?』
ロシナンテはノートに綴る。は頷いた。
「ええ、私なんだって読むわ。
・・・それにしても、素敵なタイトルね。
・・・ねぇ、覚えてる?3人で星を読んだわ」
ロシナンテはぱちくりと目を瞬いて、首を傾げる。
『こどものころ?』
「そうよ。私はアンタレスを見つけるのに苦労して、
ドフィ兄さんもロシー兄さんも『あそこにあるのに』って、私を混乱させるの。
『右』『左』『上の方』って」
『そんなこと、した?』
「したわよ。私が覚え違いをするわけないでしょう?」
はクスクス笑っている。
「兄さんたちは星を読むのが上手だったわ。
2人とも勘がいいのよね。私は2人には及ばなかった」
『そんなことない』
ロシナンテが首を横に振った。
「ウフフ、ありがとう。
体調が良くなったら、また3人で星読みをしたいわ。
ロー先生、どうかしら」
が聞くと、ローは少し難しい顔をする。
体調は落ち着いているが、ドフラミンゴがを外に出すとは考え難い。
「今はまだダメだ。
良くなっても、・・・一回ドフラミンゴに頼んでみろよ」
「ええ?口添えしてよ。お医者さんの言うことならドフィ兄さんも」
「聞かないだろ」
『きかないと思う』
ローとロシナンテに否定されては頬を膨らませた。
「説得するの大変なのよ?」
「お前が無理だったら誰でも無理だよ」
ローの言葉に、ロシナンテがしみじみと頷いている。
「・・・あなた達やっぱり仲良くなれそうなんだけど」
「は?何言ってんだ?」
『、目がおかしい』
抗議する顔も少し似ている気がするのだが、とは苦笑する。
これを言ってもまた否定されるだろう。
「・・・まぁいいわ」
は話題を変えた。
「そういえば、この間ドフィがバイオリンを弾いてくれたわ」
「ドフラミンゴが?」
ローは意外そうな顔をする。
「ええ、ドフィ兄さんは弦楽器なら一通り弾けたと思うわ。
手先が器用だから、リクエストには何でも応えてくれるのよね・・・腹が立つわ」
の物言いに、ローが呆れたように呟く。
「・・・腹が立つのかよ」
「だって悔しいじゃない。私が何日も練習した曲をさらっと弾かれると!」
『たしかに』
ロシナンテが頷いた。
がため息を吐く。
「そりゃあ、私だって大抵の曲は一日で弾けるけど。
解釈に時間がかかるんだもの」
「・・・お前ら、兄妹全員楽器が弾けるのか?」
ローが疑わし気にロシナンテを見るとロシナンテは軽く目を逸らした。
が苦笑する。
「ロシー兄さんは楽器が向いていないのよね」
『』
「だって本当のことよ。バイオリンを弾こうとすると弦が切れるし、
ピアノを弾こうとすると突き指するし」
「ああ・・・」
壊滅的なドジッ子振りだ。
ローが納得したそぶりを見せるとロシナンテは拗ねた様に頬杖をついた。
「でも歌は上手だったわ。誰よりも」
が眩し気に言う。
「きっと天使だって、ロシー兄さんの声を羨んだでしょう。
私を寝かしつけようとして唄ってくれた。
キラキラ星、ブラームスの子守唄・・・私、ちゃんと覚えているわ」
はロシナンテと目を合わせ、緩やかに微笑んだ。
「もう聞けないのが、残念だけど」
ロシナンテがパチ、と一度瞬きをして、目を伏せた。
が慌てて首を振る。
「ごめんなさい、あの、責めているわけではないのよ!」
俯いたロシナンテが、口笛を吹いた。
誰もが知っている旋律だった。
キラキラ星だ。
「ロシー兄さん」
『くちぶえは吹ける』
ロシナンテはに小さく笑いかけた。
ローはそれを見て意外そうに目を丸くした。
ファミリーと居る間はいつも無表情で、
何を考えているのか分かり辛かったロシナンテが、
には柔らかな微笑みを見せている。
まるで愛おしむような笑みだった。笑い方が少しと似ている。
「・・・ウフフ、上手ね、ありがとう、ロシー兄さん」
のその頬に、薄く赤みが差した。
幸福そうな顔だった。
その顔を見て、ローは大きく瞬き、そしてその目を伏せた。
が笑う度に、胸が痛む。
同情や、憐憫が、育ってしまった。
実るわけでもない不毛な感情になってしまった。
——これは死に至る病だ。
ローは小さく奥歯を噛む。
だから言ったんだ、。おれの邪魔をするなと。
心中で一人呟いた。
お前を好きになったって、お前はおれを見ないだろうに。
あとたった1年と少しの命で、全てを破壊への情動に向けても足りないのに、
残っていた僅かな心を、奪われてしまった。
は笑う。
金の睫毛に縁取られた眦を緩めて、
奪ったローの心臓のありかなど、知らぬまま。