諦めた娘
トレーボルは眺めていた。
彫刻、絵画、贅を尽くした調度品、本に囲まれる病弱な女。
そしてその女に優し気な語り口で作り話を聞かせる男。
調和している。
トレーボルは腕を組み、その情景に高名な画家の油絵を想起する。
笑い合う2人は、まるで貴族や王族の日常風景を切り取った絵画だった。
贅沢を当然の物として享受し、苦労も、労働や苦難に塗れた世間も知らず、
ただただ美しいものばかりを見て、食べて、着飾って来た人間の持つ、
徒人には持ち得ない空気を、この兄妹、いや、妹は持っている。
兄は妹の持つ、その洗練された空気に浸食されて、元々の僅かな素養を露にしているだけだ。
トレーボルは己に言い聞かせる。
この宝物庫を出れば、兄は完璧な”我々の”王に変わる。
冷酷で、残忍で、金も権力も容易く引き寄せることの出来る”悪のカリスマ”になる。
ドンキホーテ・ドフラミンゴを見出したのはトレーボルだ。
トレーボルにはその自負があった。
怒りに燃え、憎しみを糧にすることができる堕ちた天竜人。
覇王色の覇気を、子供でありながら纏うことの出来る逸材。
それがトレーボルの前に現れた時、
これは天命なのだと思った。
北の海にくすぶる悪党として一生を送るのではなく、
現れた逸材を育て上げることが己の使命なのだと。
なぜなら幼いドフラミンゴは、絶望していたのだ。
餓えに、苦痛に。
取り巻く環境の全てを憎み、恨み、”全てを壊したい”そう思っていた。
かつてトレーボルも味わった辛酸だった。
鍛え上げれば、ドフラミンゴはその野望を果たすに相応しい傑物になるに違いない。
そう直感したトレーボルは、ドフラミンゴに貴重な悪魔の実と、ピストルを与えた。
それで一番最初に何を殺すのかは、
ヴェルゴからドフラミンゴの生い立ちを聞いていたからすぐに理解出来た。
少し促すだけで良い。
知恵の実を差し出す蛇のように、トレーボルは吹き込んだのだ。
『ドフィ、お前が天竜人で居られなくなったのは、お前の親父のせいだろう?』
そう一言零すだけで良かった。
トレーボルの予想した通り、ドフラミンゴは父親を殺してみせた。だが。
トレーボルは笑い合う、成長した兄妹を見つめる。
ふと、妹、と目が合った。
愛想良く微笑まれる。
しかしその実、その眼差しは微笑んでは居ない。
緋色の瞳の奥底は冴え冴えと凍っている。
「トレーボルさんも、そんなところで立っていないで、
一緒にお話しませんか?」
「べへへ、光栄だがねー、兄妹水入らずに邪魔するほど野暮じゃ無い。
ドフィが”商談”に間に合う時間までゆっくり話すといいさ」
「・・・ああ、そうだな。そう言えば、そんな時間か」
ドフラミンゴは名残おしそうにの頬に唇を寄せると、トレーボルと共に部屋を出る。
ドフラミンゴはもうその顔を海賊のものに変えていた。
トレーボルの背中を、視線が刺した。
が6歳の少女だったころと、同じ視線だ。
トレーボルは思い返していた。
ドフラミンゴが溺愛する妹に嘘を吐きはじめた日、そして、
トレーボルが、ドンキホーテ・と出会ったその日のことを。
※
父親を殺し、マリージョアへその首を持って帰った日、ドフラミンゴは一人だった。
まずマリージョアで正式に天竜人として認められてから、妹、を迎えにいくつもりだったのだ。
ロシナンテは既に姿を消していた。
ドフラミンゴは薄々、そうなることを分かっていたようだった。
残念そうなそぶりを見せたが、がそこに残っていることに深く安堵していた。
はドフラミンゴが父を殺した事実を知らない。
病に伏せ、眠っていた故に、は傷つく事も、
傷つけられる事も無かったのだと、ドフラミンゴは思っていた。
マリージョアへ向かう間の看病はヴェルゴに任せていた。
それがドフラミンゴの信頼を示す行為だったから、ヴェルゴは渋々引き受けたようだ。
ヴェルゴはと、折り合いが良くなかった。
は薄々、最近出来た兄の友人だと言うヴェルゴの背後に
”良くない人々”がついていることを察しているようだったし、
ヴェルゴはヴェルゴで、の持つ天性の貴族的な空気に居心地が悪いと、
トレーボルには零していた。
『は、”おれたちとは違う生き物”なんだ』
『ドフィと居る時はそんなこと言わないじゃねェか』
ヴェルゴは緩やかに首を振った。
『トレーボルも会ってみれば分かる。あいつと居ると、
自分が薄汚れた醜い生き物だって突きつけられているようで、・・・死にたくなる。
ドフィは、おれたちのことを理解してくれるって思うけど・・・』
そう躊躇いがちに言ったヴェルゴを、トレーボルは鼻で笑ったが、
の看病をこなしているヴェルゴが徐々に消沈していくのを見て、不穏な気配を覚えていた。
そして、ドフラミンゴはマリージョアから身一つで帰って来た。
トレーボルが半ば予期していた通りに。
一度堕ちた天竜人を、奴らは迎え入れはしないだろうと思っていた。
こうして、ドフラミンゴはトレーボルらと行動を共にすることになる。
全てはもくろみ通りだった。
今後の身の振り方を考えている最中、
ドフラミンゴはについてある取り決めをしようと口にした。
『には、おれたちが海賊であることは伏せておいた方が良いと思う。
・・・おれが親父を殺した事も黙っておく』
ドフラミンゴはサングラスの奥で目を伏せる。
『お前達のことは、そうだな、商会の人間ということにしよう。
どうせ闇取り引きを中心とした組織には変わらないんだ。
まるっきり嘘でも無いだろう?』
『・・・を誤摩化せるかな?』
ヴェルゴがそう言うと、ドフラミンゴは頷いた。
『あいつはまだ6歳だ。大丈夫さ』
ヴェルゴは未だ不安そうだったが、トレーボルにディアマンテ、
ピーカもドフラミンゴと同意見だった。
そうだ。
病がちな、たった6歳のガキに、何ができると言うのだろう。
そう思っていたトレーボルは、粗末な小屋の中で半身を起こした少女と出会い、衝撃を受けた。
薄汚れていながら、病に冒され、瀕死でありながら、その少女の纏う空気は貴族そのものだった。
気高く、尊く、麗しい。
人間の薄汚い側面などなにも知らない。
置かれているこの劣悪な環境で、そうはなり得ないと言うのに、
その時のはそんな人物に見えた。
ドフラミンゴは意を決したように、に声をかけた。
『、父上が死んだんだ。ロシーは、いなくなった』
『・・・どうして?』
は息を飲む。その目からはらはらと涙が落ちる。
作り物のような泣き顔だった。ドフラミンゴは涙を拭う。
『父上はごろつきに、殺されたんだ。おれも殺されかけたところを、ヴェルゴの仲間が助けてくれた。
ロシーは、必死で逃げたんだろう。しょうがなかったんだ。
・・・今までおれは準備をしてた。あいつらと、会社を作る。もう逃げ回るのは止めよう』
ドフラミンゴの話す嘘に頷きながら、は視線をドフラミンゴから、トレーボルらに移した。
その時覚えた戦慄を、いまだトレーボルは忘れることができない。
トレーボルらを見る視線に一瞬底冷えするような怒りが見えた。
それだけではない。その目に色濃く浮かんだのは軽蔑と、落胆だ。
このガキは全て悟っている。
しかし、すぐにその視線は感謝の色へ取って代わった。
まるで仮面を付け替えたような表情の変化に、
あの顔は何かの間違いだったのだと錯覚しそうになる。
『あなたたちが、ドフィを助けてくれたの?ありがとう・・・!』
は深々と頭を下げた。
そこに嘘偽りは見えない。
トレーボルはこの時奇妙な感覚を覚えていた。
この少女を野放しにしてはならない。将来、我々の夢の邪魔になる女だ、と。
だからドフラミンゴが病弱なを檻の中に囲うように、
大切に保護しはじめたのは都合が良かった。
お前には何もできないさ、。
宝物庫の中で美しく育つは、部屋に満ちる芸術作品の一部だ。
そこにの意思はいらない。
ドフラミンゴの精神的な安定剤となるのは良いが、”王”となる邪魔になるのなら、その時は。
宝物庫の重厚な扉を背に、トレーボルはポーカーフェイス代わりの笑みを浮かべる。
愚か者の振りは得意だった。
※
「ロー先生は、どうしてお医者さんになろうと思ったの?」
定期検診を終えて、は問いかけた。
「両親が医者だった」
ローは端的にの質問に答える。
近頃の容態は安定していた。
時々起き上がって調度品の一つ、ピアノを弾いている。
宝物庫は防音になっているらしく、外までその音楽が響くことはない。
「なら、厳しくお勉強させられたりしたの?」
「いや・・・、どちらかと言えば、おれが教えてくれって親父に頼み込んだ」
「ウフフ、そうよね、そんな感じがするわ」
「・・・どんな感じだよ」
は目を細めた。
「自分から覚えたいと思った物の方が、良く身に付く気がするの。
ロー先生が私をちゃんと治そうとしてくれてるの、私には分かるわ。
きっとご両親も鼻が高いでしょうね」
「・・・」
ローは黙り込む。
本当は、を治すより、全てを壊すことに時間を割きたいと思っているのだ。
殺し方や壊し方を覚えたいと思っている。
事実、ドフラミンゴたちから受けているのは海賊としての英才教育だ。
のために医術を学ぶ時間が少しばかり設けられたが、かつてよりはその時間は減った。
今のローを、最後まで病に抗い死んでいった両親が見たら、
どんな風に思うのかだなんて、想像もしたくなかった。
だから皮肉に満ちた言葉を吐いてみせる。
「さァ、もう死んでるから、どう思ってるかなんてわからねェな」
ローの言葉に、は目を瞬いた。
ローは嘲笑うように口角をあげて見せる。
「分かってただろ?。
お前はおれの痣を見て、何にも思わなかったか?
これは死に至る病の証だ。家族はみんな死んだ。
おれももうすぐ死ぬ。医術を勉強したって、本当は意味が無い、
ドフラミンゴが命令するから、お前を診てやってるだけだ」
吐き捨てるように言葉を並べ立てて、を見る。
は悲し気に眉を顰めていた。
「・・・そう」
は頷いた。
「ドフィ兄さんのもとに身を寄せたのは、なぜ?」
「全部ぶっ壊せるからだ。お前の兄貴にはそれだけの力がある」
「”力”・・・”力”ね、ウフフ・・・」
は小さく笑った。
そこには蔑むような響きがあって、ローは微かに眉を上げる。
「ねえ、ロー先生。人を一番惨めに、愚かにさせる方法をご存知?」
は唇に笑みを浮かべている。
しかし、その目の色は冷たく、冴え冴えとしていた。
「その人のためと言って、その人から考える力を、自分から動く力を奪うの。
かしずいて敬っていて、幾ら口で『あなたの奴隷だ』なんて嘯いたとしても、
そんなの家畜か、愛玩動物と変わらない扱いだわ・・・馬鹿にしてる」
ローはぞっとした。
それが誰のことを指しているのかはっきりと分かった。
自身、そして、ドフラミンゴのことだ。
はドンキホーテファミリーの幹部を断罪している。
それどころか、ドフラミンゴを貶めていた。
「この世界で、一番の権力を持っていると言われるのは”天竜人”よね
あなた彼らを見た事がある?」
「・・・いや」
は窓辺に目をやった、遠くを見て居る。
何かを思い出すような仕草だった。
「彼らは、とても哀れだわ。
自分で靴ひもを結ぶ事も、洋服を一人で着替える事もできない。
両手両足をもっていても、身の回りの事は何もできないの。
出来る事と言えば、壊すこと、殺すこと、傷つけること、奪うこと・・・」
は微笑む。
「それはどんな愚か者にもできることなのよ。ロー先生」
それからローに視線を合わせた。
「あなたのように、治すことや、何かを生み出し育むことが出来るのは、賢く優しい人だけ。
学び、貪欲に知識を求める人にしか、与えられない手段だから」
はローの頭を撫でる。
窓から差し込む夕焼けが、の金色の髪を照らす。
燃えるような煌めきだった。
病に冒され蒼白な肌も、太陽の光を得て一時だけ赤みが差した。
「あなたは知っている。人を救う手段を。
私のことをあなたは救っている」
ローは目を大きく瞬き、深く帽子を被った。
「・・・治せてない」
「ウフフ、そうね、でもこれから治してくれるんでしょう?
私の小さなお医者さん」
その優し気な声は、鈴の音を鳴らすようだった。
「命令だからだ」
「それでもよ」
はローの手を握る。
冷えていた。それなのに、指先からじんわりと温まって行くような気がして、
ローは小さく息を飲んだ。
「何もかもを壊したいと思っている人が、誰かを治す手を持っていて、
その手を私に差し伸べてくれるなんて、とても素敵なことだわ。
あなたが死んでも、私が死んでも、その過程で、そんな素晴らしい出来事があったのなら、
私、それだけで意味があると思うのよ」
「意味・・・」
「あなたが死んでしまうなら、私が死んでしまうなら、
あなたが私を治そうとする事は無駄なことかしら?
いいえ、私にとっては、意味がある。
それに、兄さんはあなたを買っているでしょう。
そうやすやすと、あなたを死なせはしないはずよ」
はローから手を離して
ウフフ、といつもの調子で笑い、ピアノに指をかける。
「ロー先生、人間なんて、いつかは死んでしまうわ。
病気が治っても、いつかは・・・。
でも余り怖くないのよ。
だって、生きているのも死んでいるのも、そんなに違いなんて無いわ。
少なくとも、私にとってはね」
手慰みに人差し指で押した、シャープの”レ”が雨音のように響く。
「私には何も救えない。ロー先生、あなたと違って」
そんなことはない。
ローは口走りそうになった言葉を飲み込んだ。
恐らく、そう口にしてしまったら、ローはボーダーラインを超える事になる。
胸の内を巣食いはじめてる、恐るべき感触を改めて認める事になる。
は話題を変えた。
「ロー先生、あなたはピアノ、弾ける?
お医者さんは弾ける人が多いと聞いた事があるわ」
「・・・少しだけ」
手先が器用になるからと、両親も妹もピアノを嗜んでいた。
ローも例外ではない。
はローに楽譜を見せた。
「これは?」
「ドフィ兄さんが退屈凌ぎにって渡して来たの。
意地悪だと思わない?難しいでしょう」
ラ・カンパネラ。超絶技巧の練習曲だ。
これを退屈凌ぎと言って渡されたら困るだろう。
「”むかつく”から完璧な演奏を聴かせて、”度肝を抜いてやろう”って・・・舌噛んだわ」
悪戯っぽく笑ったは、言い慣れないくだけた言い回しを使って舌を噛んでいた。
痛そうに口元を抑えて眉を顰めている。涙目だ。
「何やってんだお前・・・」
ローに何か言い返そうとして振り返ったが目を丸くした。
それから、その眦を緩める。柔らかな眼差しにローは怪訝そうな顔をした。
「なんだよ?」
「ウフフッ、何でもないわ!」
は何かに気がついたようだったが、その後は意味有りげに笑うばかりで、
ローに何も教えはしなかった。
ただ、とても嬉しそうだった。
その笑う横顔が、焼き付いたようにローの頭から離れないことが、
永きに渡り、ローの心中を蝕むことになるとは、まだ、誰も気がついていなかった。