踏み出した娘
は絵を描くことが好きだった。
モチーフは部屋中に転がっている。
絵画を模写することもあれば、彫刻のデッサンをすることもあった。
でも、一番描いていたのはドフラミンゴとロシナンテの顔だ。
そこに、最近はローも加わった。
スケッチブックに鉛筆を走らせ、は一人呟く。
「ウフフ、お誕生日が来たら、仕上げて渡そうかしら。
できるだけ上手に描かなくてはね」
ローの誕生日は10月だと聞いている。
まだ時間に余裕はありそうだった。
「ドフィにケーキをお願いして、バースデーソングを歌って、
少しでも・・・あの時みたいに笑ってくれたら、」
に呆れた後、はにかむように笑ったあの顔を、もう一度見てみたい。
最近のローは表情が豊かになった。
声をあげて笑うことは少ないが、いつかは笑わせてみたいと思っていた。
は壁掛け時計を見て、目を丸くする。
「あら? ロー先生遅刻だわ。珍しい」
時々遅れてくることもあったけれど、最近は時間ぴったりに戸を叩き、
に顔を見せてくれる。
急いで来たのか肩で息をしている時さえもあったのだ。
だからだろうか、は言いようのない不穏な予感に襲われた。
不安げに一人、呟く。
「・・・具合が、よくないのかしら」
ローの白い痣は徐々に広がり続けている。
ローは憐れまれるのを嫌がるので、病を指摘することもなければ、
なるべく気にしないよう努めていたが、珀鉛病は死に至る病だ。
痛ましくて、可哀想で、せめてこの部屋にいる時だけは、
復讐も恐怖も忘れさせてあげたかった。
は枕元に置いていた本のページを捲る。
クラリモンド。死霊の恋。
「『それでよくここへ帰って来られたでしょう。
何故と言えば、恋が”死”より強いからだわ。
恋が終いには”死”を負かさなければならないからだわ』・・・」
は活字を撫でた。
はその日、ローを待ち続けたが、
結局誰もの部屋を訪ねては来なかったのだ。
※
翌日、朝方にドフラミンゴがの部屋を訪ねて来た。
機嫌があまり良くないのか、ため息が多い。
「そう言えば、昨日はロー先生が来なかったけれど、」
がおずおずと尋ねると、ドフラミンゴは頷いた。
「ローは病が少々悪化してな・・・、
しばらくは違う医者を手配しよう」
は息を飲む。
「そんなに、具合が良くないの?」
「ああ、お前の往診はできないだろう。残念だが、」
「・・・」
は目を伏せた。奇妙な違和感があったのだ。
あまりにも突然すぎる。
ローからは珀鉛病について多少のことは教えられていた。
じわじわと、真綿で首を締めるように命が削られていくのだと、ローは言っていた。
だから、万が一の時があった時は、ドフラミンゴに手紙を残すと聞いている。
だが。
はドフラミンゴの手元をさりげなく確認する。
それらしいものは、何も確認できない。
不安げなに、ドフラミンゴは笑顔を作った。
「・・・そう気に病むな。
それから、ロシナンテだが、少々遠方の取引を担当させることにした」
「・・・ロシー兄さんを?」
は軽く瞬いた。
ドフラミンゴは静かに頷く。
「しばらくは見舞いに来れないだろうが、その分おれが時間を作ろう」
「そう、寂しくなるわ」
ドフラミンゴは悲しそうなに手を伸ばした。
「お前には、いつも我慢を強いてばかりだな」
指の背中で頰を撫でられる。
どうしようもないほど優しい手つきだった。
「いいえ。十二分に、良くしてもらっているわ」
は首を横に振り、笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ドフィ。・・・兄さん。大好きよ」
ドフラミンゴは笑って、部屋を後にした。
音を立てて閉まった扉に、は深く息を吐き、小さく呟く。
「うそつき、」
シーツを握り締める、その手は小さく震えていた。
ロシナンテが単独行動を取るなんて、今までありえないことだった。
ドフラミンゴはロシナンテが戻ってきてから、過保護と言っていい扱いをしていた。
逆に言うのなら、ロシナンテはドフラミンゴが
単独行動を許すほどには信用されてはいなかった。
それに何より、いくら病が悪化したとは言え、
ローがに何も言わずに、顔を見せなくなることがあるだろうか。
手紙の一つも寄越すはずだ。あるいは、伝言を。
どんな経緯なのかはわからない。けれどの直感は囁いていた。
2人はきっと、一緒に居るのだろう。そして、戻って来ないのだろう。
もしかすると、もうこの世にいないのかもしれない。
ドフラミンゴがに”嘘”を吐くということは、そう言うことだった。
は顔を覆う。
「ロシー兄さん・・・! ロー先生・・・!」
いつだって、失うのは突然で、変化は唐突に訪れる。
はそのことをまざまざと、思い知らされたのだった。
※
ドフラミンゴは約束通り、の元へ通う頻度を増やし、
新しい医師を寄越した。アルドンサと言う、冷静沈着な女医だった。
ローとロシナンテと会えない悲しみに沈むを見かねてか、
新しい女医にはと少し距離を取るようにと、
ドフラミンゴは言いつけているようだった。
踏み込ませなければ、心を開かなければ傷つくことはないからだ。
は口角を上げ、人当たりよく微笑み、事務的にアルドンサへ接した。
時折ドフラミンゴにローやロシナンテの様子を聞いて見ても、躱されるばかりだったが、
はどうやら彼らが生きているらしいと気がついた。
かつて父の死をに告げた時よりも、ドフラミンゴは幾分落ち着いていたし、淡々としていた。
確信には至らなかったが、少しの気休めにはなった。
しかし、精神的には希望が見えたものの、肉体の方が先に崩れ始めたのだ。
「・・・」
ものの数ヶ月で、容体は悪化の一途を辿った。
はドフラミンゴが来る前に頰と唇に紅を差すようになり、
熱の怠さが常に付きまとうようになった。
ドフラミンゴもの状態が良くないのはわかっているのだろう。
を呼ぶ声にどこか苦渋が滲んでいる。
は努めて明るい声を作り、表情を和らげて見せた。
「ドフィ、ごめんなさいね。少しだけ、体が億劫で、」
「いい、無理をするな。食が細くなったと聞いているが、どうだ?」
ドフラミンゴは起き上がろうとするを制した。
「あまり、食欲が湧かないの」
「・・・食わなきゃ、大きくなれねェぞ」
ドフラミンゴの口からついて出たのは子供染みた言葉だった。
はクスクス笑う。
「ウフフ・・・、遅れてきた成長期ね。
ドフィみたいに大きくなっちゃったらどうしましょう」
ドフラミンゴはサングラスの奥で目を眇めた。
しばし考えるそぶりを見せた後、に優しく問いかける。
「・・・何か欲しいものはあるか?」
「そうね、」
の脳裏に様々なことがよぎった。
ローとロシナンテに会いたい。外に出たい・・・、それから。
だが、気遣わしげにを伺うドフラミンゴを見て、
は目を細める。
「ドフィが剥いてくれた林檎なら、食べられるかも」
ささやかな我儘に、ドフラミンゴはの手を取った。
「いくらだって剥いてやる」
「ウサギにしてくれる?」
「お安い御用だ」
は目を閉じる。
手を包み込む温もりは暖かく、優しい。
「・・・ありがとう」
ドフラミンゴはすぐに部下にリンゴを手配させると、
手ずからナイフで皮を剥きながら、嘆くように呟く。
「ーーローは本当に腕が良かったんだな」
それは本当に、思わず出た言葉だったのだろう。
は頷いた。
「フフ、そうね。賢い子だった。ローの病気は、大丈夫なの?」
「ああ、きっと治る」
希望を語る言葉と裏腹にナイフを持つ手に力が入っていた。
何を思っているのか定かではないが、あまり良いことではないようだ。
「私、ドフィにウサギのリンゴを剥いてもらえるならね、
病気になるのも悪くないって、思うわ」
繕うつもりで呟いたの言葉に、ナイフが滑った。
ドフラミンゴはを咎める。
「バカなことを言うな!」
その剣幕には瞬いて、ドフラミンゴを見つめた。
ドフラミンゴは我に帰り、こめかみを指で押さえる。
「ドフィ兄さん」
「・・・悪い、」
自己嫌悪に襲われているらしいドフラミンゴに、は首を横に振る。
「今のは私が悪かったわ、ごめんなさい」
ドフラミンゴは顔をあげ、を見つめる。
「医者を、変えようか」
「・・・いいえ、少しだけ様子を見てみたいわ」
朝食のスープをかき混ぜて、
黒ずんだ銀のスプーンを隠した引き出しを見つめて、
は首を横に振る。
少しばかり確認したいことがあったのだ。
不自然な容体の悪化、毒入りのスープ、その黒幕を。
※
は定期的に診察に訪れるアルドンサに声をかけた。
「アルドンサ先生」
アルドンサは振り返り、を見つめる。
無機質な瞳だった。
「私を治せなかったらあなたは、兄からどんな罰を受けるの?」
「・・・何も、」
アルドンサはの問いにしばらく黙ってから答える。
は一つ頷いて、続けて問いかける。
「私に毒を盛るように言ったのは、どなた?」
張り詰めた沈黙がの部屋に満ちた。
まっすぐにアルドンサを見つめるの目に、
逃れ得ぬと悟ったアルドンサは淡々と答えた。
「教えられません」
は目を細める。予想の範疇だ。
「まぁ、いいでしょう。・・・今この状況で私が死ねば
間違いなくドフラミンゴはあなたを処分する。
それなのに私に毒を盛ると言うことは、それなりの覚悟があるはず。
見返りは何だったの?」
早々に誤魔化しきれないと気づいたアルドンサは、意外にも素直にに答えた。
「・・・お金です。様」
それからアルドンサはポツポツと身の上を語り始めた。
やっとの思いで医者になっても家族が稼ぎを毟り取って行くこと。
弟もアルドンサと同じように親の金づるになっていること。
自分はどうなってもいいから弟だけは逃がしたいと思っていること。
アルドンサは挑むようにを見つめた。
「私を罰しますか、お兄様に言いつけるのですか」
「あなたは私にどうして欲しい?」
微笑みさえ浮かべながら首を傾げたに、
アルドンサは言葉に詰まった様子だった。
はそれを見て苦笑する。
「意地悪なことを言ったわね。
ウフフ、でも、私を殺そうとしている人に、優しくしてあげる必要ってあるかしら」
アルドンサの声が表情とともに歪んだ。
「私は、今ここで、あなたを殺すこともできるのですよ」
「脅しているの? 私を?」
の目が愉快そうに細められる。
「あなたはそんな愚かなことをしないわ。
兄がどれほど私を大事にしているかお分かりでしょう。
ーーここで私を殺したなら、兄はどんな風にあなたを殺すのかしら」
その声は囁くようだったが、アルドンサの耳には鮮烈に聞こえた。
「爪を剥ぐ? 喉を潰す? 手足を切り落とす?
薬を使う? 刃物は? 素手で? 特殊な器具は使うのかしら?」
歌うように言うを、アルドンサは見ていることしかできなかった。
恐怖で指が震えだす。は柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、どう思う? アルドンサ?
こんなに残酷な想像をしているのに、不思議ね。全然胸が痛まないの」
病に冒された、死の淵に近いはずのは、
今のアルドンサには死神のように見えた。
震える唇で問いただす。
「・・・私に、どうしろと仰るんです?」
「そうね、”別に何もしなくていい”わ」
「何ですって?」
それは予想していない答えだった。
顎に指を這わせ答えたに、アルドンサは目を見張る。
「やる気のない治療を続けてくれれば、私はそれで構わない。
もう毒を盛る意味はないでしょう? 放っておけば私は死んでしまうし」
自嘲するような物言いに、アルドンサは思わず首を横に振っていた。
「そうは思いません」
「・・・あら、そうなの?」
意外そうなに、アルドンサは目を眇め、答えた。
「あなたのような人は長生きします。目に光がある。希望がある。
・・・何故、そんな風に思えるのですか?
実の兄に閉じ込められ、ろくに人と関わることもないのに、
病にも毒にも蝕まれているというのに」
「・・・『何故と言えば、恋が”死”より強いからだわ』」
「え?」
何かのセリフを引用したのだろう。だがアルドンサにはわからなかった。
怪訝そうに眉を顰めるアルドンサをは笑い飛ばし、答える。
「ウフフフフッ!
私は私の一生を、嘘でもいいから幸せに生きていたいと思ってるだけよ」
唖然とを見つめるアルドンサに、は笑みを浮かべた。
「あなたと話して、・・・私も決心がついた。
ずっと今まで、怖くてできなかったけれど、
私、残された時間を有効に使わなくてはいけないのだわ。
この命の一滴まで振り絞って、成し遂げなくてはいけないことがあるの」
『嘘が聞きたくないなら、『嘘吐くな、全部バレてる』って、言ってやれば良いんだ』
は、ローと交わした言葉を覚えている。”言葉”が側にいてくれる。
は自分を殺そうとした人間と向き合うことで、
立ち向かう勇気を、手に入れたのだ。
アルドンサは少しの好奇心に従って、に尋ねた。
「差し支えなければ、お伺いしても?」
「ウフフ、嫌よ」
微笑むに、アルドンサは深く息を吐く。
「・・・かしこまりました。様。
あなたが死ぬまで、”長いお付き合い”を」
※
その日、ドフラミンゴがの部屋を訪れると、は本を読んでいた。
はドフラミンゴに気がつくと、ページを読む手を止めて、
兄妹はしばらくたわいもない話をする。
ドフラミンゴは真実の中に嘘を織り交ぜ、それらしい物語を作り上げて、
に話して聞かせるのだ。
それはもう、何年も同じことを繰り返していることだった。
ドフラミンゴは徐々に会社の規模を拡大している最中なのだとに説明した。
そして、の体調が落ち着いたら船に乗せてやると言う。
「だから拠点を移すまでに、お前には元気になってもらわなくちゃな」
の髪を梳き、ドフラミンゴはに笑いかける。
はそれに嬉しそうに微笑む。いつもの光景だった。
「何か、欲しいものはあるか?」
だが、ドフラミンゴが決まり文句になっている言葉を告げると、
は常とは違う言葉を返したのだ。
「ドフィ、ワガママを言ってもいいかしら」
は静かにドフラミンゴに頼み込んだ。
「なんだ?」
ドフラミンゴは首を傾げる。
少しのわがままなら聞いてやるつもりだったが、
それにしても、は何を欲しがっているのだろうかと不思議に思ったのだ。
外に出ることだろうか、あるいは、ローやロシナンテに会うことかもしれない。
それとも、単純に退屈しのぎの相手が欲しいのか、欲しい本や美術品があるのだろうか。
「一回やってみたかったことがあるの」
だが、美しく微笑むの口から出た言葉は、
ドフラミンゴの予想とは全く違うものだった。
「”兄妹喧嘩”。一度もしたことなかったでしょう?」
微笑むの顔を、ドフラミンゴは思わず注視した。
は微笑みを取り払い、ドフラミンゴに向き直る。
緋色の瞳が強い意志を持ってドフラミンゴを見つめていた。
「ドフィ兄さん。ロシー兄さんとロー先生は、まだ、生きているの?」
「何を、言うのかと思えば、・・・」
ドフラミンゴは繕うように常の笑みを浮かべた。
しかしは真っ直ぐにその目を見返している。
「殺してないのね?」
ドフラミンゴの顔に動揺と驚愕がよぎった。
は深く息を吐く。
「私は6歳の女の子じゃないのよ。綻びがあれば嘘にも気づくわ」
「・・・、お前、」
「『人間に課してきた人生を神も生きてみよ、
という判決が突きつけられたら、神は自殺するだろう』」
はドフラミンゴの言葉を遮り、作家の言葉を口にした。
世界で最も有名な復讐劇を描いた小説家の金言は、
ドンキホーテの兄妹にとって重なるものがある。
かつて、”神”に等しいとさえ言われる世界貴族、”天竜人”だった3人には。
「でも、私たちは生きている。・・・なんのために?」
はドフラミンゴを見上げる。
「私は幸福になるために生きたい。どれだけ残された命が短くとも、
死に際に「幸せな人生だった」と胸を張って言えるような、そんな人間でいたい」
ドフラミンゴは知らない人間を見るような心地で、を見ていた。
そこに居るのは、従順で、無害で、純粋な妹ではなかった。
「壊し、殺し、傷つけ、奪うことしか能のない”悪人”に成り下がり、
復讐の枷を自ら背負うのは、愚かなことだわ。ねぇ、兄さん・・・」
の言葉は鋭く、その眼差しは決意と知性に光っている。
そして、その口ぶりには皮肉が滲んだ。
「妹一人騙し通せない悪人は、大成しないと、そうは思わないかしら?」