Trigger
ローはその部屋に入る度、奇妙な感覚を覚えていた。
の部屋は広い。
天蓋付きのベッド、壁にかけられる美しい絵画、並べられた彫刻、壁一面の本棚。
立派な衣装箪笥。贅沢な調度品。
レモンの入った水差しと、複雑にカットされたグラス。
いつも完璧に調律されているピアノ。
ドレッサーには煌びやかな香水瓶や、化粧品が並んでいる。
奥にはシャワールームがあるらしいが、当然ローは入ったことがない。
空気を転換するために少ししか開かない窓のそばには小さなテーブルと椅子があって、
は体調がいい時、そこで本を読みながら窓の外を眺めているか、ピアノを弾いていた。
ゴミ処理場とは反対側、その窓からは、海と空しか見えはしない。
ドフラミンゴにとって都合の悪いことを、
どこまでも目隠しした部屋だと気づくのに、そこまで時間はかからなかった。
の部屋には暴力の影がない。
だからだろうか。時折、ロー自身も、海賊であることを忘れそうになるのだ。
「・・・?」
今日のは眠っているようだった。
定期検診の時間に眠るは珍しい。ローはそっとそばに寄った。
その顔は赤らんでいた。こめかみには汗が浮かんでいる。
ローは小さく息を飲み、首に触れる。
驚くほど熱い。
「高熱、」
ローはタオル、氷水、湯たんぽなどを用意して、高熱の対処に当たる。
薬は本人の様子を見てからにしよう、と
ローはのベッドの脇にある椅子に腰掛けた。
の唇が微かに動く。
眉根が苦しそうに歪んでいた。
「・・・さん、止めて」
「?」
「、やりたくない、別の方法を考えて」
うなされている。
の目尻から涙が溢れた。
「”私に引き金を引かせないで!”」
その様子にただならぬ何かを感じ、ローはの肩を揺り起こす。
「!!!」
は飛び起きた。
高熱を出しているにもかかわらず、顔色は真っ青だ。
息を荒げながら、自身の髪を掴んで、目を固く瞑っている。
「おい、・・・水、飲むか?」
水差しからグラスに水を注いで渡してやると、
にしては珍しく、無言でグラスを受け取った。
静かに水を煽り、飲み干すと小さく息を吐いている。
「・・・ロー先生?」
ようやくローに気づいたらしい、の憔悴した眼差しに、
ローは戸惑いながら、口を開いた。
「夢にうなされてた。高熱のせいだ」
「夢・・・?」
は髪をかきあげる。
「そう、”悪夢”ね」
グラスをサイドテーブルに置き、掛け布団をグッと握りしめて、
は眉を顰めながらも口角を上げて見せた。
今まで見たことがないほど、機嫌が悪そうだ。
「ロー先生、しばらく一人にして欲しいわ。
定期検診なら明日でもいいでしょう?」
「・・・ダメだ。様子が変だぞ」
ローはここでを一人にはしておけないと思った。
明らかに様子がおかしいし、その上、高熱が出ているのだ。
落ち着くまではそばに居たかった。
「なんなら話くらい聞くから・・・」
「話して何になるの?」
はピシャリとローを拒絶した。
「――忘れることなんて、できたことがないわ」
その言い草に、ローは小さく息を飲んだ。
の挙動や言動の端々から、そうじゃないかと、思っていたことがあった。
「”瞬間記憶能力”、分厚い本のトリックを何冊分も覚えてるし、
楽譜も一日で覚えられるって言うから、もしかしたらって思ってた。
――いつからだ?」
ローの問いに、は唇を一度引き結んで、それから告げた。
「生まれつきよ、こんな能力、欲しくなかった」
の声も表情も、驚くほど平坦だった。
常の明るい振る舞いとは全く似ても似つかない嫌悪を滲ませている。
「・・・忘れたいことばかりよ。
知りたくないことばかりをまざまざと見せつけられてきた。
知性のない愚か者どもの、下らない差別主義者の、
喚き散らす様を延々と、私は覚えている。
恐ろしい暴力。獣じみた悪意・・・うんざりだわ」
眉根をひそめ、空を睨むの瞳は苛立ちに燃えていた。
ささくれ立った雰囲気を纏うに、ローは眉をひそめる。
こうして見ると、機嫌の悪いドフラミンゴとそっくりだ。
「お願いだから一人にして」
「今のお前を一人にできない」
「・・・私を慰めるとでもいうの。あなたが?」
はその時初めて、ローを見くびるようなそぶりを見せた。
「傷の舐め合いに、なんの意味があるの。
あなたは自分のことで精一杯なはずでしょう?
兄さんもそうだった。だからよく分かる。私には分かるのよ」
は苦しげに微笑んだ。
「私の苦しみは、私だけのものだわ。
あなたの苦しみが、あなただけのものであるように」
「取り繕うのを止めろ、」
しかし、ローはごまかされたりはしなかった。
ここでに躱されてしまえば、
二度との本心に触れることはできないと言う、
漠然とした直感があったのだ。
「だいたい、なんでお前は諦めてる?
口では外に出たいって言うけど、全然本気に見えないんだよ」
は奥歯を噛んだ。
「・・・私は罪人なのよ」
絞り出すように紡がれた言葉は静かだった。
「兄さんに全てを押し付けてしまった」
は唇を真一文字に引き結び、ローに向き直った。
緋色の瞳は冷たく凍っている。
「だから、私はこの部屋で一生を終えなければいけない。
随分前に、私自身が決めたことだから、もう、全てを受け入れているの。
――出て行って、ロー先生。もうこんなことは言わないわ。
明日には、バカみたいに明るいに戻ってるはずだから」
ローの顔が一瞬、拒絶された悲しみに歪んだように見えた。
しかし、その顔はすぐに驚愕に塗りつぶされる。
「・・・何で泣くんだよ」
「え・・・?」
「全部受け入れてるなら、何で泣くんだ!」
は自身の頰に手を伸ばし、伝う涙に息を飲んだ。
今まで崩れなかったはずの演技が、できなくなっている。
は自分に言い聞かせた。何度も繰り返し、心中で呟いた言葉を。
笑え。煙に巻け。
「ごめんなさい、感情的になっているわ。
これだから、女って嫌ね」
「話をそらすな、なんでそんな、辛そうなのに!」
涙など見せるな。
「・・・どうして納得してくれないの」
怒りを隠し、心から愉しむフリをしろ。
「納得なんか、出来る訳ないだろ・・・!」
ローの手が、の頬に恐る恐る触れた。
よりも小さく、頼りない手の平だった。
「おれは、あと1年で死じまうから、」
ローはの涙を拭う。妹にするような所作だった。
「お前が誰にも言えなかったことを、全部持って行ける」
の目が大きく見開かれた。
「話してくれよ。そうでないと割に合わねぇ。
お前はおれを腑抜けにしたのに」
「・・・腑抜け?」
ローはの目をまっすぐに見た。
「お前を治したい、それまで死にたくない」
その声は震えていた。
「どうせ死ぬなら全部壊してやりたかったのに、
死ぬことなんか怖く無かったのに。・・・お前はおれの邪魔をしたんだ」
「お前と生きたい。1年しかないなら、その時間を分け合いたいんだ、お前と」
が息を飲んだ。その唇が、小さく戦慄いている。
「私、・・・私は、あなたの感情に値するような、そんな人間じゃない」
「それは、おれが全てをお前の口から聞いて、決めることだ」
ローはの手を取って、迫った。
「聞いてやるから言いたいこと言えよ。
心身のバランスを崩して、体調が悪化することもあるんだ。
兄貴の悪口でも、何でも良いから全部言え」
は目を見開く。唇を閉じて、そして開いた。
「怖いの」
堰を切ったように、から言葉があふれ出した。
「どんどん自分の身体が、言う事を聞かなくなっていく」
「兄さん達と、あと何回話せるだろうって思う。
あとどれ位、私は私で居られる?
眠ってしまうのが怖い。そのまま目覚めなかったら?
そう思って、いつも深くは眠れないの」
「昔は兄さん達と星を数えたわ。
私たち、とても貧乏だった。
あばら屋でひもじい思いをしながら、三人でボロ布を分け合って眠ったの。
でも、不思議よね、ロー先生。私、そのころが・・・一番楽しかった」
「料理のレシピも。航海術も覚えているの。
でも、包丁を握った事は無いわ。
怪我をするかもしれないからって、持たせてもらえなかった。
一緒に食卓を囲むことは、殆ど無いの。一人で食べるの。
運ばれてくる料理は、とても、美味しいのだけれど、味気ないわ」
「・・・もう兄さん達の嘘は聞きたくない」
「私、ワガママかしら、どうしてうまく行かないの?
そんなに難しいことを願っているつもりは無いわ。
家族と、幸福に過ごしたい。
――その願いは、そんなに贅沢なものなのかしら。
そのためだったらなんだってできるはずなのに、
兄さん達にとって、”理想の妹”でいれば、良いことだと思ってたのに」
「死ぬまで演じればいいだけのことが、今の私にはこんなにも難しい・・・!」
右手で顔を覆い、大粒の涙をこぼし始めたの左手を、ローは握った。
「。お前変な奴だ。なんでおれにそれだけ言えて、
ドフラミンゴとコラソンに言えないんだよ」
「・・・ロー先生」
ローは努めて明るい声色を作った。
いつもが、そうしているように。
「お前にめちゃくちゃ甘いんだぞ、ドフラミンゴは。
少し位ワガママ言ったって、気にしねぇどころか多分喜ぶよ。あいつ。
コラソンもお前の前だとドジが減る。カッコつけてるんだよ。
嘘が聞きたくないなら、『嘘吐くな、全部バレてる』って、言ってやれば良いんだ」
は困ったように眉を下げた。
「だって、兄さん達は、私のために、嘘を・・・」
「お前を騙し通せないあいつらが悪い」
ローはきっぱりと断言した。
は驚きと困惑とが涙で混じった、奇妙な表情を浮かべている。
「そもそも、すぐボロが出るような嘘を吐くとか、
あいつらお前をナメてるんだよ。突き放してやれ。
ふざけるんじゃねェって。
きっと狼狽えるぜ、あの、ドフラミンゴが!コラソンも!」
ローはの頭を撫でた。昔、妹にしてやったように。
「だから、いい加減泣き止めよ」
は唇を噛んで、嗚咽を堪える。
今まで誰にも打ち明けられなかったことを吐露してしまった。
まだ幼い、けれど賢くて、かわいそうな、ローに。
まるで昔の兄のような、子供に。
はローを柔らかく抱きしめた。
ローは驚いているようだったが、は構わなかった。
「ひどいことを言ってごめんなさい。
・・・聞いてくれて、気持ちがとても軽くなったわ。
”私の小さなお医者さん”」
滴る涙の温度が変わっている。
は本心から笑みを浮かべた。
まだ涙が止まらないせいで、不恰好だとはわかっていた。
「ロー先生、ありがとう。・・・好きよ」
ローの頰に血が上った。
しばらく視線を彷徨わせた後、笑い泣く、の目を見た。
緋色の瞳が潤んでいる。血潮の色だ。生きている証の色だ。
それが、優しい形で、ローを捉えていた。
心臓が大きく鼓動していた。
今しかないと思った。
それはにも伝わったのだと思う。
は少々驚いたようだが、静かに目を伏せた。
受け入れてくれたのだ。
ふ、と触れるだけの口付けだった。
子供じみた、戯れのような。
ウフフ、といつものようには笑った。
その頬はバラ色に紅潮している。
その時ローは、望むように生きたいと思った。
最後までのそばに居たかった。
自らの病に打ち勝ちたいと、を治したいと心から願った。
も、思うように生きてみたいと願った。
兄たちと向き合って、きちんと話をしようと決めた。
ローや、ドフラミンゴや、ロシナンテと、
心から笑い合える日が欲しかった。
自分の命を諦め続けたとローが、
”変わりたい”と強く望んだのがこの日だった。