逃避する娘


ドフラミンゴは林檎を剥いてやっていた。
はそれを見て、小さく息を吐く。

「ドフィ、私、林檎くらいなら自分で剥けるわ」
「ダメだ。指を怪我したらどうする」

ドフラミンゴはの提案をあっさりと却下すると、
綺麗に丸く剥いた林檎をくし形に切ってやり、
に渡した。

「ありがとう。果物は好きだわ」
「なんなら食べさせてやろうか?」

「なんですって?ウフフ!その冗談面白くないわよ!
 ちゃんと自分で食べられます。子供じゃないんだから」

ドフラミンゴは半ば本気だったのだが、
流石に嫌がったに、肩を竦めてみせる。

「フフ、最近は調子がいいみてェだな」
「ええ、ロー先生のおかげだわ。ドフィからも褒めてあげて」

はあのローを随分気に入った様子だ。
ローをの医師にしたのは、半ばドフラミンゴの思いつきだったが、
どうやらそれが良い方に転んだらしい。

あの年頃にしてはそこそこの知識と技量を持っている事は面談時に聞いていたが、
本人が自棄になっていてその腕を振るう気がなさそうだったのを、
ドフラミンゴは密かに懸念していたのだ。

使える武器は磨くに限る。

それに、の退屈しのぎにもなっているらしい。
話題の項目が一つ増えた。
の優し気な雰囲気につられてか、
ドフラミンゴらと居る時よりも随分子供らしい姿を見せているようだ。

「この間もらった練習曲が弾けるようになったのだけど、
 ロー先生も少しピアノが弾けると言うから、何か弾いてみてって言ったらね、
 ドフィ、何を弾いたと思う?」

「簡単なマズルカとか、あるいは、ソナタか?」
「ウフフフッ、違うの、”ねこふんじゃった”だったの・・・!」

は声を上げて笑っている。
つられてドフラミンゴも笑っていた。

「フッフッフッフッフッ!それは、意外だったな」

「そうでしょう?ウフフッ、しかもあんまり上手じゃなかったわ。
 慰めたらムキになって、その日から暫く練習してたの。
 昨日は随分上手になってたんだけど、
 私思わず笑ってしまって・・・、怒らせちゃった。
 明日には機嫌が直っていると良いのだけど」

クスクス笑うの顔は久方ぶりに明るく見える。
サングラスの下で眦を緩め、ドフラミンゴは静かに問いかけた。

「なにか、欲しいものはあるか、
「ええ?急に言われても困るわ」

はそう言いながらも、少し考えるそぶりを見せる。
暫く何か考えた後、は何かひらめいたらしい、
ドフラミンゴに向き直った。

「スケッチブックと、鉛筆を」
「ああ、前にやったのはもう使い切ったのか?」

は絵を描くこともあった。
本格的な油絵はその独特の臭気が身体に良く無いからと以前の医者に禁じられている。

水彩は一度ロシナンテがバケツをひっくり返してしまいが頭から色水を被り、
体調を悪化させたのをきっかけにドフラミンゴが激怒したのを、
が見て呆れてからは手を付ける様子が無く、の得物は専ら鉛筆だ。

「ええ、下手の横好きだから、見せられるようなものではないけど」
「そんなことはないさ」

身内の贔屓目を差し引いても、の腕はそれなりだとドフラミンゴは思っている。
以前無理を言って描かせた似顔絵はまだとってあると、
に告げたらどんな顔をするだろうか。

こうしてと話していると、たわいもない会話の一つ一つが貴重なものに思える。

ドフラミンゴを決して裏切らない血縁。ドフラミンゴの支柱の一つ。
母の面影を残し、優しく、無邪気な妹。

同じ様に堕ちた天竜人であるにも関わらず、はこんなにも清廉としている。

それが時折酷く憎らしくもあり、同時にとても愛おしく、哀れでもあった。
きっと外の汚れた空気の中では、この妹は生きられない。そう思っていた。

、具合が良いのなら、ピアノを聞かせてくれないか」
「ウフフ、良いわよ。何が良い?ドフィ兄さん?」
「おれを月まで連れてってくれ」

は頷いた。

「”Fly me to the moon”ね。
 ウフフ、私もこの歌、とても好きよ」



、・・・おい、!」

ローは本を読むに何度か声をかけていた。
夢中になっていたようで目の前でようやく手を振られて
はローが居る事に気づいたらしい。

「あ、・・・ごめんなさい。つい夢中になってしまっていたわ」

細いフレームのメガネを外し、は照れた様に笑った。

「・・・おれと最初に会った日もそうだった。
 それ、そんなに面白い本なのか?」

ローはの持っている本のタイトルを見た。

「『緋色の研究』?」
「そう、推理小説よ!ロシー兄さんに貰ったの。
 もう、3回は読み返しているわ」

ローは訝しむ様にその本を見た。

「1回読めば充分だろう」

は指を振った。チッチッチ、と舌を鳴らす仕草はやけに芝居がかっている。

「それは違うわロー先生、例え1回読めば全部覚えられるのだとしても、
 2回、3回と読み込めば、様々な物語の側面が見えて来る。
 文字の韻、表現の妙、言葉の”力”
 ——たった3行の言葉の連なりで、人は時に恐怖し、感涙し、温かな気持ちを覚える。
 自分の想像力に勝る表現者は居ない。私はそれを、素晴らしいと思うの」

それは陶酔しているようでもあったが、
ローには何故だかは、悲しんでいる様にも見えた。

は笑い、言葉を続ける。

「本、物語を読むのは好きよ。
 同じ位、絵画や彫刻を鑑賞するのも、音楽を奏で、聞くのも。
 言ってしまえばそれは全部”物語”なの。
 全ては“Fable”、”寓話”なのよ」

ローはの物言いに、首を傾げる。

「・・・絵や彫刻もか?」
「そう。何しろ私は退屈だったから、考える時間は山ほどあったし、
 ドフィ兄さんにワガママを言って、資料を取り寄せてもらうことも出来た」

は絵画を指差した。

「画家は絵画を描くときに、下絵を何枚も描いて、キャンパスを張り、
 デッサンして、下地を塗り、着色する。
 光を描き、時間を描く。一筆一筆演出し、その一瞬を切り取るのよ。
 そしてそれは、大抵現実より遥かに魅力的に描かれる」

ローはの絵画を見る眼差しに、憂いを見つけていた。
その時、ローは気がついた。

そうだ。は現実に、失望している。

「彫刻家もそうよ。大理石の中に、形を見出して、それを取り出そうとする。
 余分なものを削ぎ落とし、素晴らしい形を模索する」

宝物庫に溢れる芸術品の数々を指差して、は言う。

「私はその中に物語を見出すの。
 モチーフの意味、作家は何を考えていたのか、伝えたい事はなんなのか。
 その光を描き、その影を彫る事で、彼らは何を求めていたのか。
 私は彼らに感情移入する。まるで私がこの作品を作り出したかのように錯覚するまで」

ローに生きている”意味”があると言ったその口で、
は、まるで自身をないがしろにするようなことばかりを口にする。
他人の物語を、自身に重ねる遊びを、この部屋では延々繰り返しているのだ。

「それに、”意味”があるのか?」
「ウフフ、私にとってはね。
 私は多分、長生きする事は無いでしょう」

落ち着いた声色だった。

「母もそうだった。私、自分で分かっているの」

本の表紙を撫でる手つきさえ、穏やかで優しい。

「誰だって一度きりしか、人生を歩めない。
 でも”物語”の中では、私は誰にでもなれる。
 何度だって味わえるわ。見た事無いものが見える。
 聞いた事の無い音楽だって、物語の中なら。
 海賊になって宝物を追いかけたり、
 歌手になったり、誰かの恋人や友達になったりする。
 はたまたシリアルキラーにだってなれる。
 ――紙の上で人を殺したって誰も咎めないわよね」

ローははっきりと眉を顰めていた。
不愉快だった。だから何より率直に、その言葉を口にしたのだ。

「そんなの現実逃避だろ」
「——現実が私達を幸せにしてくれたかしら?」

言葉に詰まる。
にしては強過ぎる言葉だと思ったが、
少し考えてみれば、にとっては当然の憤りであるように思えた。

病に冒され、自由を奪われ、本や芸術作品にしか、触れる事を許されなかった。
にとっての現実は、閉塞的で、歪だ。
ドンキホーテの兄妹がどのような生い立ちなのか、ローは知らないが、
幸福なものでないのは、なんとなく察している。

「ウフフ、そんな難しい顔する程の事じゃないわよ。
 ――私は逃げ道があっても良いと思うの。
 立ち向かうだけが強さじゃないわ。
 戦うための準備期間があっていいのよ。
 だってどうせ、最後に向き直らなくちゃ行けない日はくるんだもの」

は半ば繕う様に言ったがローはそれに、真摯に答えるべきなのだと思った。
どうしてに同情していたのか、その理由が、輪郭を持った気がしたのだ。

はローにあまりに近しい。

病に怯え、死を見つめ、無力だ。

その結果、は現実から逃避し、
ローは自分もろとも全てを壊してしまいたいと願っている。

そのせいか思わず口にしていた。
それは、もしかして、自分自身に向けた言葉でもあった。

「・・・だからって自分を諦めて良い理由にはならねェ」

だからだろうか、に言っているはずの言葉が、
己の喉から滑り出たはずの言葉が、
やけに胸の内を切り裂くのは。

だが、言わなければいけなかった。
この、何もかもを諦観し、口を噤み、甘んじて不自由を受け入れている女を、
励ましてやらなくてはいけなかった。

なぜなら、ドンキホーテ・はローの最初の患者なのだ。
は目を丸くする。

「・・・あら、ウフフ、カッコいい事言うのね」
「茶化すな、いいか、耳かっぽじって良く聞けよ」

深く息を吸い込み、
ローはまっすぐに、のうさぎのような赤い目を見つめた。

「見た事の無いものだって、聞いた事の無い音楽だって、
 本や、絵画や、この部屋にある宝の中から、お前は読み取る事が出来るんだろう。
 だけど、お前の病気が治ったら、お前はそれに直に触れるんだ。
 誰かの言葉や、視点を通さずに。
 誰かの物語があるなら、お前の物語だってあるだろう」
「・・・」

は何か言おうとしたようだったが、やがてその唇を閉ざした。
笑みを忘れたその顔は、どことなくの兄たちを思わせる雰囲気だ。

「言っとくけどな、患者に治す気がなくっちゃ、良くなるものも治らねぇんだよ。
 、お前は”おれの患者”なんだから、長生きできねぇだの、死ぬのは大して恐く無いだの言うな」
「・・・だって」
「『だって』じゃねェ。お前、嘘吐くなよ」
「!」

の表情が翳る。
ローは畳み掛ける様に言い募った。

「怖くないなんて嘘だ」

 嘘だ。
 死ぬのが怖くないなんて嘘なんだ。

「・・・死にたくないはずだ。こんなクソみたいな世界でも、」

の目が大きく見開かれ、やがて緩やかに細められた。

「――ウフフフフフッ」
「!?、おい、帽子返せっ!?」

帽子をとられ、いつもよりずっと乱暴に頭を撫でられてローは手を払おうとした。

「ありがとう、ロー先生」
「・・・べつに」

はまだ笑っている。

「でも、そんな啖呵を切るのなら、あなたも頑張らなくてはダメよ」
「・・・」
「まさか、私にばっかり、頑張れって言うの?
 そういう時は『おれも一緒に頑張るから』って言って欲しいわ、
 ・・・嘘をつかないのは、あなたの良いところだけどね」

の眼差しは、どこまでも柔らかい。
悲し気な表情を浮かべていても。

「・・・おれは治らない」
「私も完治はしない病気だわ」
「お前とは違うよ」

ローに帽子をかぶせて、はローの頬を両手で包んだ。

「そうかしら、・・・でも、もしそうでも、
 最後まで、私と一緒に生きる努力をして欲しいわ」

に、と悪戯っぽく笑う顔は、ドフラミンゴと少し雰囲気が似ている。

「私を治してはくれないの? 私の小さなお医者さん?」

もうは分かっているのだ。
ローが、心からを治してやりたいと、思っている事を知っている。

「お前、・・・お前は、卑怯だ」
「フフフフフッ、だってドフィ兄さんの妹だもの!」

はローの悪態を笑い飛ばした。

「ねえ、ロー先生。小説を貸してあげるわ。読んで感想を聞かせてよ」
「なんでおれがそんなこと」

は胸の前で手を合わせ、ぱっと表情を明るくした。
戸惑うローに、微笑んでいる。

「同じ物語でも、どういう感想を持つのかは人それぞれだわ。
 私はそれが気になるの。ドフィ兄さんもロシー兄さんも
 私とは全然別のキャラクターに肩入れしたりするわ。
 ドフィ兄さんはね、推理小説なら『おれならもっと上手くやれた』って言って、
 トリックを考えてくれるの。
 ああ見えて、ロシー兄さんは暗号を解くのがすごい上手だし」

ローはの言葉に、少し思うところがあり、首を傾げた。

「・・・なぁ、ドフラミンゴの奴、そういうとこからボロが出てるんじゃねぇのか?」
「ウフフフフッ、そうねぇ」

は否定しないので、つまりそう言う事なのだろう。
ローは呆れてため息を吐いた。

「でも私、ドフィ兄さんが好きよ」

はローに静かに告げた。

「それはおれじゃなくて本人に言ってやれよ。
 多分機嫌良くなるから」

「言っているわよ。何度も。これから先も何回だって言うわ。
 何万、何千、何億も。
 だって私、ドフィ兄さんの為に、生きているんですもの」

その言い草に、ローはを見上げた。
は深いため息を吐く。

「きっと・・・普通じゃ、ないんでしょうね、こういう兄妹のあり方は。
 でも私、心配なの。ドフィ兄さんは、私が死んでしまったら、私が居なくなったら 
 おかしくなってしまうのではないかって。
 叶うならドフィ兄さんよりは長生きをしたいって思うのよ。
 ドフィ兄さんは、少し脆いところのある人だから」

全くドフラミンゴと結びつかない言葉が出て来てローは怪訝そうな表情を浮かべた。

「脆い?ドフラミンゴが・・・?」
「ええ、ウフフ、だから優しくしてあげてね、ロー先生」
「・・・よくわかんねぇけど、わかった。
 でもお前、コラソンのことは心配しねぇんだな、・・・薄情な奴」

ローが意地悪く言うと、は苦笑した。

「なんだかんだ言ってもロシー兄さんは強い人なのよ。
 人見知りだし、ドジッ子だけど、とてもタフなの。
 でも、あまり頼りすぎるのも良く無いわね。あなたの言うとおりだわ」

は少し考え込むそぶりを見せる。

「あなたがロシー兄さんと仲良くしてくれれば安心なんだけど」
「は?無理だな。絶対!無理だ!!!」

念押しするローが面白かったのか、は笑いだした。
どこまでも、明るい声色だった。