モネと

モネは「死んでくれ」と頼む男の声に従うことに、何のためらいも覚えなかった。

そもそも、自らの意思で数多ある部屋の中、
シーザーの作った悪趣味な破壊兵器の鎮座する場所に這ってでも来たのだ。
この研究所と共に、心中するために。

でんでん虫の向こう側の声は、随分と低かった。
モネに死を命じるその声が、まるで心を痛めているように聞こえるのは、
モネのほんの僅かな願望がそう感じさせるのだろうか。

唇が弧を描くのが分かる。
ジョーカー、・・・ドンキホーテ・ドフラミンゴのためならば、命を捨ててもかまわない。
それが彼のためになるのなら。

沈痛な面持ちのでんでん虫をかかえながら、モネはスイッチのカバーを開けた。

瞬間、目の前が真っ白になる。

「え・・・!?」
「それは困るわ・・・。
 それを押されると、困るのよ。モネ」

女の纏っていた白いコートが目の前で揺れた。
だった。

灰色の瞳が緩やかに細められる。
その目に射すくめられ、モネは動けなかった。
から目が離せなくなる。
ふわふわとコートの裾を風に遊ばせるは何故だかとても楽しそうだ。
いつの間にしゃがみ込んだのか、戸惑うモネと視線を合わせたは呟いた。

「最後の仕上げよ。世界が変わる、用意は出来てる?」

が優しくモネの髪を梳いて、目を瞬いた・・・その時だった。

誰かの叫び声がした。

それがモネ自身のものだと気づくのにさほど時間はかからなかった。

自分の身体がどうなっているのか分からなくなった。
強い酒を飲んだときのような酩酊感、凄まじい多幸感と、
苦痛なまでの快感を一瞬で叩き込まれたようだった。

自分の身体を抱き締め、やり過ごそうとするにも全身を自分で触れるだけで、
恐ろしいことに感覚が鋭敏になったようだ。
地面に倒れ込んでもまだ続く。
身じろぎするだけで何度も頭が真っ白になった。

それなのに完全に快楽に浸りきれず、起爆スイッチを押せていないどころか、
このはしたなくも抑えきれない声を聞かれていると思うと
羞恥と怒りと悲しみで死んでしまいたくなる。
しかし必死に思考を練り上げる合間にも身体は言うことを聞かないままだ。

嬌声なのか、悲鳴なのか分からない声をあげ、
のたうつモネを醒めた目で見つめながら
はでんでん虫の受話器をとりあげた。

『おい!どうした、モネ!?・・・そこに誰か居るのか?!』

流石にドフラミンゴも様子がおかしいと悟ったらしい。
は笑みを浮かべながらその声に答えた。

「ご機嫌いかがかしら、ジョーカー?」

その、恐ろしく甘い声に、
でんでん虫が一度口を噤んだ。

『・・・誰だ、お前は』
「私の名前は
 パンクハザードには、しばらくお邪魔したわ」
『なんだと!?』

驚愕に叫ぶでんでん虫にモネは怪訝に思う。
ドフラミンゴが捨て置いて良いと言ったはずの女になぜそんな反応をするのだ?
ようやく収まって来た快楽の波の余韻に震えながら、
必死に言う。

「・・・!?っ確かに・・・私は・・・つ、伝えたはず!」

は微かにため息を零した。

「ねえ、モネ、おかしいとは思わなかったの?」

耳の奥、身体の中枢を痺れさせるような、そんな声だった。
は白い指先でへたり込んだモネの顎をゆっくりと持ち上げる。
目が合った。灰色の瞳が煌めいている。果実のように瑞々しい唇が弧を描いていた。

「あなたの”若様”が、ローと一緒に居る女を警戒しないはずが無いでしょう」

なにがなんだかわからない、と言う顔をするモネに、
は出来の悪い生徒に言うような優しげな声で言う。

「つまり、勘違いさせたわけ。
 モネは””の存在をドフラミンゴに伝えた。
 でもそんな女は強くもないし大した価値もないので放置してかまわないと返答があった。
 その後は監視のみで留めても構わないだろうと思いそのように行動した。
 ・・・そんな風にね、思い込ませたわ」
「そ、んな・・!」

ありえない。
モネは目を丸くする。そんなことが出来る人間が居るはず無い。
だが、モネは手配書の注釈を今更ながら思い出していた。
”夢魔、ひいては魔眼使い”その記述を。

『・・・確かにお前なら出来るだろうなァ!”白衣の悪魔”!
 お前が居ると分かったならおれ自らすぐに対処しただろうよ!このアバズレが・・・!』

ドフラミンゴの声に鋭い物が混ざった。
が笑みを深める。

「これはこれは・・・私をお見知り置きとは恐悦至極。
 アハハハハッ!」

誰もが恐れをなすはずのドフラミンゴの怒気に触れてなお、は高らかに笑う。

「そういうわけで・・・あなたの優秀な側近の彼女は哀れにも私の毒牙にかかり、
 まぁずいぶん乱れたものね・・・。
 あなたの命令を聞けた状況じゃないみたいよ。そうよね?」

が何を思ったかでんでん虫をモネに向けた。
モネは抵抗を試みるも、の目を見るとそれもできなくなった。
息を切らせを無言で睨みつけるも、
は堪えた様子もなくただ首を傾げただけだった。

「何も言えないの?」

瞬間身体が大きく痙攣した。
恐るべきことにがこの感覚を自在に操っているのだ。
モネは絞り出すように告げた。

「申し訳・・・ありません・・・」
「ですって。悪いわね。彼女の命は私が貰い受けるわ。
 つまり生かすも殺すも私次第というわけ。おわかり?」

を睨みながらモネは涙を堪えきれず嗚咽する。

『・・・ローといい、お前といい、どこまでこの俺をバカにする気だ?ええ?
 ただで済むと思うなよ』
「直接お目にかかれるのを楽しみにしているわ。
 私はこの日が来るのを13年待ったのだもの。
 ねえ、ドフラミンゴ・・・」

がドフラミンゴの名前を呼ぶや否や電話が切れる。
乱暴に叩きつけられたらしいでんでん虫には微笑む。
指先ででんでん虫を撫でると、はモネに視線を移し、
ベガパンクの防護服のマスクをモネの足元に転がした。

「さぁ、立ちなさい」

その命令に従わざるを得ず、
ふらふらと立ち上がったモネの顎を持ち上げ、は口付ける。
驚きのあまり目を白黒させるモネが目眩を覚えるや否や離された唇に、
は何か呟いていた。

「ひとまずはこれで持つでしょう。
 ガスはまだここまで回っていないようだけど、
 時間の問題よ。マスクをしなさい」

なんのつもりだ、とモネはを睨み上げた。

「あなた・・・・!何を考えてるの・・・?!殺しなさい!」
「うるさいわねえ、時間が無いけど、しょうがない・・・カウンセリングをしてあげる」

が言い募るモネの瞳をじっと見る。
モネはとたんに口がきけなくなった。震えてまともな言葉が紡げない。
どうして今までこの女を放置出来ると思ったのだろう。この女は悪魔だ。
魔眼、人を支配する恐ろしい力の持ち主なのだ。
はタンクの端に腰掛ける。

「ちょっと聞きたいんだけど、子供達のことをどう思っていたの?」
「・・・!」
「そう、あなたが毎日毎日覚醒剤を与えてた哀れな子供達のことよ」

突然何を言いだすのか、と口を開こうとすると、モネの胸が鋭い痛みを帯びた。
呼吸が苦しくなる。喉に凄まじい圧迫感があった。が何かしたのだろう。
倒れ、床に顔を着けたモネに、足を組んだは症状を確認してみせた。

「ああ、そう。罪悪感のようなものがあったの?あなたにも。
 だから鎮静剤が無くなっていても、”マスター”に報告しなかった。
 麦わらの一味のチョッパー君が、鎮静剤を盗んだことに気づいていたのに
 何も言わなかったのね、あなた」
「!?」

モネが驚きに息を飲む。

「私の目を見たら嘘はつけない、逆らえない。
 ・・・そうよね?」

の声色が皮肉めいたものに変わる。

「子供達には彼らを愛する両親がいる。
 海難事故と聞かされても彼らは必死にあの子たちを探しているわ・・・、
 あなたが持ち得なかった優しい両親が彼らを待ってる。
 あなたはそれを分かってたのね」

モネの翼が震えた。は知っているのだろうか、
ドフラミンゴに拾われる前の、生きるために泥を啜って生きて来た自分を。

「あなたが覚醒剤入りのキャンディを子供に食べさせると
 シーザーから聞いた時、あなた思い出したはずよ。
 そして改めて感じたはずだわ。奪われる立場から、奪う立場になったのだと。
 あれだけ憎み、恨んだ恐るべき大人たちと自身が何も変わらないということを」

の甘い声を聞く度に、モネの胸の痛みが酷くなっていく。
心臓の辺りを必死に抑えるモネには続けた。

「そして、あなたは目を背けた。
 薬入りのキャンディを与えながら何も知らない子供に慕われる気分はどうだった?
 ねぇ?『優しいモネお姉さん』」
「うるさい・・・!」
「・・・罪悪感で胸が痛むの?」

は表情を取り払った。

「あなたがしたことはあなたの抱く罪悪感の痛みで贖えるものではないわ。
 ましてやこの私に『殺せ』ですって?」

モネの顎を掴み、は吐き捨てるように言葉を吐いた。

「なぜ私があなたを楽にしてやる必要がある?」

はもう、怒りを隠そうとはしていなかった。
指を2本立てて、モネに言う。

「選択肢を用意してあげるわ」

「一つはあなたが自分で、今ここで死ぬこと。歩けるはずよ。
 能力者なら自ら海に飛び込むが良い、簡単に死ねる。
 それが嫌なら舌を噛み切ると良い。好きに、勝手に、死ねばいいわ」

「一つは私の僕となり、のこのこと主の居るドレスローザに乗り込むこと。
 もう一度良く考えてみるが良いわ。あの男があなたの献身に相応しい男かどうかを。
 なんなら子供達に謝罪でもしてみる?」

嘲笑うにモネが叫ぶ。

「結局、私はジョーカーに消される・・・!どちらにせよ同じことよ!」
「いいえ、違うわ。
 あなたは自分で選ぶの。自分の行く末を」

不思議となんの感情も入っていない、静かな言葉だった。

「選びなさい。自分の良心の叫びに目をつぶるのか、目を開けるのか。
 飼いならされた小鳥でいるのか、鳥かごからでるのか。
 ただ一つ”悪魔”として忠告させてもらうなら、」

は鮮やかに微笑んだ。懐からキューブを取り出し、投げ渡す。
モネは最初、それがなんだか分からなかった。
赤く濡れたそれが、自分の心臓と気づいたのは、
の言葉を聞き終えてからだ。

「自分の心に嘘を吐くことは、誰にも出来ない」

どくん、と心臓が大きく鼓動する。
モネは唇を噛み締めた。様々な感情が胸を打つ。

・・・地獄を見て来た。人間の醜悪さなら誰より知っていたし、
その醜悪な世界を泳いで来た、この身はすでに汚れきっている。
救われたかった。助けて欲しかった。守られたことなんて無かった。
それでも歳の離れた妹を守りながら、悪意の嵐の中を耐えようと、必死で生きて来た。

そこに現れたのがドフラミンゴだ。
大きな手の平がモネの、人であったころの手の平を掴んで立たせた。
妹と一緒に。

その時、ドフラミンゴのためなら何でも出来ると思った。
思っていたのに。

モネは自身の感情のコントロールが効かないことに気づいている。
全てをひっくり返されたような心地だった。

は敵だ。
それなのに、心臓が早鐘を打っている。
先ほどまで感じていた、恐るべき感覚の残り香のような、
酩酊しているような感覚がまだ抜けない。
・・・抜ける気配がない。

「妹がいるの」
「そう」
「若様のために、命を張る覚悟があるわ」
「・・・そう」
「私もそうだった。若様のためなら死ねると、そう思っていた」

は無表情にモネを見詰めている。
その表情は静謐で、彫像のように凪いでいる。

心臓は正直だ。
モネはドフラミンゴのために生きたかった。
だが、もうドフラミンゴのために死ぬことは出来ない。
に憎しみを覚えている。
だが、を殺すことは出来そうも無い。

植え付けられた二律背反の感触に、蝕まれていることに気づきながら、
モネは震える足で、立ち上がる。震える羽で、の手を包んだ。

これが手酷い裏切りになるのは分かっていた。
モネは目を硬く瞑る。
それでも、その白い手を拒むことが出来なかったのは、魔眼の刷り込みの結果なのだろうか。

願わくば、そうであって欲しかった。

目を開けて、を睨む。

「乗ってあげるわ、悪魔の取引」

戻った心臓が、炎のような熱を帯びているのを自覚しながら、
モネはを見つめていた。
今ならその唇に、全てを食い破られても良いと、その時だけは本気で思っていた。