口づけ

目を覚ますと、酷く頭が痛んだが、
睡眠で疲労がいくらかは取れているようだった。
だが、やはり空腹だ、とは息を吐く。

この夢魔の空腹には、何年経っても慣れることがない。
我慢は出来ても、苦痛なものは苦痛である。

「あ、起きたのか!?」

ぼうっとしていたに、チョッパーが近づいて来た。

「今ロビンがモモの助と風呂に入ってるんだけど、その後入るかって、ナミが」
「ナミちゃんが?」
「ローの許可もちゃんととったぞ!着替えもロビンから渡された!」

どうやら気を使われたようだ。
ローは恐らくこの手の気遣いは断ったのだろうが、
酷く寝汗をかいていたため、正直に言えばありがたい申し出だった。

はチョッパーに微笑む。

「ありがとう。お言葉に、甘えさせてもらうわ」



同じ海賊船でも、サニー号は乗り慣れたイエローサブマリンとは随分趣が異なっている。
設備の多くが贅沢な船だと、は案内を受けた浴室のバスタブに浸かりながら思う。
海上でこんなに広いバスタブはそうそうお目にかかれまい。
それでもは黄色い潜水艦を懐かしく思った。
ボイラーの音を、そういえばしばらく聞いていない。

ふと、の目に磨き上げられた鏡に写る自分の姿が写る。
口の端を指で持ち上げてみた。
容易く笑みを形作る唇に反して、笑わないその瞳は希望の輝きを失って久しい。

思えば随分歳をとった。

は自身が感傷的になっていることに気がついた。
ドフラミンゴと相対する時が、刻一刻と近づいているからだろうか。

は鏡に指を這わす。
自身の顔は母、カルミアに随分と似たものだ。
だが、今際の際の彼女の美しさには到底及ぶまい。

そしてなにより、はこの顔に思うところがあった。
種族柄あまり老いがわかりにくいとはいえ、
ロシナンテに臆面もなく愛を囁いた若く純粋な少女は、面影だけ残して消えてしまったのがよくわかる。

あの頃のように、は笑えない。
そこにいるのは狡猾で、残忍で、食虫植物のような妖しい色気を垂れ流す魔物だった。



風呂から上がるとは軽装でサニー号の甲板へ出た。
の目当ての人間は同盟を組んでいるとはいえ、一応敵船と警戒をしているらしい。
愛刀、鬼哭を抱えていた。
ローは隣に腰掛けたに気づくと僅かに息を吐く。

か。・・・おい、お前、油断し過ぎなんじゃないのか」
「そんなこと無いわよ。私がどういう戦い方するか知ってるでしょう」
「それにしたって軽装だろう。風邪引くぞ」

ローから薄手のコートを寄越されては大きく瞬きをしたあと、
渡されたものを素直に羽織った。

「ありがとう。珍しいわね、・・・ふふっ」
「何笑ってやがる」
「いいえ、別に!
 随分と優しくなったじゃないの。
 初めて会った頃は、射殺すような目を向けられたわ。怖かった」
「嘘吐けよ」

コートの裾を摘むにローは僅かに目を細める。

「あの頃から、あなたはあっという間に懸賞金の値をつり上げたものね。
 海軍は写真の更新が大変だったと思うわ」
「お前は、変わらねェな」
「まあ、若作りなのは認めるけど」

実際の年齢に反し、一見すると
ローとそう歳の変わらないように見えるはけらけらと笑ったが、
そのうち真剣な眼差しでローを見る。

その瞳に危険な光はない。

「ドフラミンゴは本当に七武海を辞めるかしら」
「・・・さァな」

がそれっきり何も言わないのを察して、ローは言葉を続けた。

「だがあいつは、そうするしかない」
「・・・そうね。ただ私、何か見落としている気がしているのよ。
 気をつけましょう?お互いに」

その声に含むものを見つけて、ローは静かに問いかけた。

、前々から気にはしていたが、
 お前、この期に及んで何を隠している?」

は口を噤む。
ローはあえての瞳を見つめている。
は呆れたように息を吐いた。

「あなたの船に乗ってから、その手の質問は何度も受けたわね。
 最近では聞かなくなったと思うけど」

誤摩化すような口ぶりに、ローは眉を寄せた。

「今更お前が裏切るなんて思わねェよ。
 今でも話せないことなのか?」
「・・・そうね」

は頷いた。
一度俯いて、前を向く。

今までは、何も隠していない、と言うのが常だった
観念したように肩をすくめる。
だが、ローの期待したような、詳しい答えは返ってこなかった。

「この戦いが終わったら、話すわ。必ず」
「・・・そうか」

それ以上問いつめても無駄だと悟ったローは能力で
手元にグラスを2つとワインを取り出し、注ぐとに手渡した。

「景気づけだ。飲め」

は少々驚いてグラスを受けとった。

「・・・さっきから、らしくないわよ、どうしたの?」
「飲まねェならおれが全部飲むぞ」

拗ねたような物言いには上等なワインを見て言う。

「せっかくだから頂くわ」

はワインに口をつける。

どちらからともなく、たわいもない話ばかりをした。

明日が、どんな一日になるのかはまだ知らないのに、
まるで世界が終わる日の前のように。

ゾウへ向かったハートの海賊団は元気だろうかとか、
とローが出会った日も、こうしてワインを飲んだとか、
そう言えば、いつかの宴会でワインコレクターだった海賊から奪った酒は美味かったとか。

やがては、麦わらの一味に言及する。
ローの描いたシナリオについてを。

「本当なら、自分の手でケリをつけたかったという気持ちも、無くは無いのよ」
「・・・だろうな」

それがドフラミンゴに対してのことだと、ローはすぐに悟った。

「理屈で言えばこれが一番成功率が高いのだけどね。
 この一味がどこまで理想的な筋書きを書いてくれるのかもわからないけれど」

は目を伏せる。

「でも、そうね、あなたが麦わらと同盟を結んだことは、
 悪いことではなかったと思うのよ。
 ・・・随分と振り回されているようだけれど!」

愉快そうな口ぶりに、ローは笑みを浮かべた。

「饒舌だな・・・酔ったか?」
「どうかしら?」

ローはその瞬間を待ち望んでいたようだった。
の手を引いて、その身体を引き寄せる。

突然のローの暴挙には驚いているのか目を丸くしていた。
灰色の瞳は酒のせいだろう、微かに潤んでいる。
頬の輪郭に手を這わせると、の肩が小さく震える。

ローはその唇に、自ら齧り付いた。

相手を支配し、蹂躙するような口づけは、
から行われるのが常だったが、その時ばかりは違っていた。

深くなる口づけにはさらに抵抗する。
だが、ローはそれを良しとしなかった。
の髪に指を差し入れ、無理矢理に後頭部を抑えられる。
まるで離れるのを許すまいとするように。

いつの間にローの帽子がずり落ちたのか、ローの前髪がの白い髪と混じり合った。
上顎を舌で撫でられては目を眇める。

は疲労も相まって、
ローから生命力を吸い取り始めていることに気がついて、ローの肩を叩く。

明日がどんなことになるか分からない以上、
ローから生命力を吸い取る訳には行かない、と抗うがためだ。
だが当のロー本人には全く気にするそぶりが無い。
どういうことだ、と、は目を白黒させる。

パンクハザードで2週間毎に与えられた”夢魔の食事”でさえ、
それ以前に何度か交わされた口づけですら、
ローをここまで夢中にさせたことはない。

一体なにが、今、ローを駆り立てるのか、には分からなかった。

何がなんだかわからずが翻弄されているのを見て、
ローは小さく笑う。
が異変に気付いたのはこの時だ。

この男は理由なく夢魔に口づけはしまい。

のその直感は、正解だった。

必死の力でローを押しのけると目眩と頭痛、
そして何より、抗い難い眠気がを襲う。
乱れた息でローを睨み上げると、
ローはしてやったりと言わんばかりに笑みを浮かべた。

「・・・あなた、・・・私に、何を、飲ませたの?」
「さァな、なんだと思う?」

まるで自分の軽口を聞いているようだ。

は平生を保っていられない自分に気がついた。身体が崩れ落ちる。
抱きとめられローの肩に顔を埋めるような格好になって、は苦い顔をする。

「お前に死なれるのは、困るんだよ」

ポツリと零された声色に、は小さく息を飲み、深く息を吐く。

「この・・・クソガキ・・・」

誰かに優しく背中を撫でられた気がして、は短く、悪態をついた。
驚く程弱々しい声だった。



ローは静かに深い眠りに落ちたに息を吐いた。
落ちた帽子をかぶり直す。

には、ワインとともに睡眠薬を飲ませた。
シーザーの手術で疲労が蓄積された身体では、その違和感を感じ取ることも難しかったのだろう。
あるいは、ローから手渡された酒に、何が入っている訳もないと思っていたのだろうか。

ローは確かに、からの信頼を裏切ったことに気づきながら、奇妙な感覚を覚えていた。
これで良いと思ったのだ。

がドフラミンゴを誰より憎んでいるのを、ローは知っている。
ドフラミンゴの命を奪うために、は何も惜しまない。
・・・己の命さえも。

モネを連れて来たのも、なにか策を描いた故だろう。
だが、がモネになにか、同情めいたものを覚えているのも間違いは無い。
がモネを見る眼差しはどこか柔らかい。
よほど、人間より人間らしい甘さを残しているように、ローは思う。

それでもローは、が夢魔であることを知っている。
情を移すのは危険だった。心を許すのも、身の内の全てを晒すのも危険だと知っていた。

だが、この有様だ。

いつしかには、その目的を話していた。
コラソンの本懐を遂げるために生きているのだと口にした。
パンクハザードで行動を共にする程には信頼を置いていた。
そして何より、己の生命力を分け与え続けた。

いつでもはローを殺そうと思えば殺せた。
そんな状況を許したのはロー自身だ。

ドフラミンゴ相手に、どこまで描いたシナリオ通りにことが進むのか、
明日になってみなければ、分からない。
だが、がドフラミンゴと相対したとき、
ドフラミンゴは間違いなく、を手にかけようとするだろう。

でんでん虫の通話でも、その殺意の片鱗は伺えた。

ローにはそれが堪え難かった。
よりによってドフラミンゴにを殺されるのだけは嫌だと思った。

いつの間にか夢魔に取り憑かれたのだと、ローが気づいた時には全てが手遅れだったのだ。

夢魔に取り憑かれた男は死ぬ。

なら、ローの命はいつ尽きるのだろう。

「本懐を遂げた後ならいつだっていい。、お前になら」

その言葉を、誰が聞いている訳も無いことを知りながら、
ローはそのまま朝を待った。